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爽やかだったり、鬱だったり。ええ、そううつってやつです。 苦節9年、2014年にやっと、正式に双極性障害の診断が下りました。 鬱とフラットをラピッドに繰り返して、滅多に「爽」や「軽躁」になりません。
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色という話題ついでに言っておくと、私の好きな色は、まず断然、薄いピンク(どちらかというと薄紫がかったもの)。それから、薄紫、薄緑。白、ベージュ、黄土色、白木の色。緑系、などである。

そして心の色も緑色が理想的かもしれない。
青の爽と書いたが、緑のほうが、より、爽のイメージにぴったりかもしれない。
緑の爽状態よりもテンションが上がると、黄色にになって、少しやりすぎが出て、楽観視もしすぎて、軽い軽躁と言える。オレンジ色になると、立派な軽躁や躁である。。
(これ以降の記述で、躁とは軽躁を含む:)焦燥や強迫がある赤い躁。イライラや易怒性が高まると紫がかった感じかも。くすんだ色の躁、人によっては黒い躁もあるかもしれない。くすんだのや、黒いのは、躁鬱混合状態であるが、珍しいことではなく、むしろそれにならない双極性患者はほとんどいないと想像する。

くすんだ色…それを躁とか躁鬱混合状態とか呼びたくはないけど、私はしばしば、強迫的にヤル気ばかりが焦って、何事もうまくいかず、物事が進展せず、何事もやたらやたら時間がかかりすぎる…という時が多い。

以上の色のイメージは、思いつくままに書いただけの物であって、他の方は、これとはまた別の色で気分のイメージをとらえていらっしゃると思う。そういう方は、この記事でどうか気分を害されず、気に止めないでいただくことを願いたい。自分の中でも、じきに色のイメージは変わってしまうかもしれない。

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先日ブログのタイトルを変えた理由は、「爽状態」という造語を作ったことと連動している。
「爽状態」という言葉は、双極性障害における、躁ではない正常気分で、普通にヤル気があり、普段の生活に満足感や楽しさをおぼえるような状態を表現したくて、私が作った。著しい場合は、「生きててよかった」「すべてに対して感謝」「神様ありがとう」という気持ちになることもあるが、こうした感情は、躁状態においてもみられることのあるものである。しかし爽状態では、躁状態ほどテンションが高くはないし、楽観性がそれほど強すぎないし、やりすぎや、焦燥・強迫・不眠などの辛い症状もない。
正常人の元気な時やニュートラル気分と比べると、わずかに楽観的だったり、楽しいことが何もないのに満足感があったりする。しかし、正常人にも爽気分が訪れることもあるかもしれない。双極性障害では、元気になると躁になってしまうので、爽状態は長続きしにくそうだ。私も、めったになく、時間も短い。

ブログタイトル変更と同時に、テンプレートも、青系の爽やかなものに変えたが、その前は、青や水色などは極力避けていた。
普段いつも鬱傾向なので、それに拍車をかける色は避けたい。青系などの寒色は鎮静効果があり、よけい気分が沈んで萎えてしまう私なのだ(ちなみに緑系はOK)。ブルーな気分という言葉が当てはまってしまうのだ。それで、リビングルームの小物なども、青っぽい色は避けるようにしている。この病気にかかる前は、夏は、涼しげな水色系の絵を飾ったり、青い朝顔の造花を挿したりしていた。今では、そういうのを見ると気分が下がる感じがするので、やらないようにしている。(そもそも片づけたり飾ったりをする気力がない。)
(ただし、青でも、空の写真だけは好きだ。)
前は、インテリア同様、ブログのテンプレートもブルー系は避けていたのである。

ところで、鬱ベースの私も、ヤル気がアップしたり、元気が出たりすることがある。
前述の「爽状態」になったり、弱い軽躁状態になることがある。(どちらも少ないが。)

ヤル気が出てきた時、それは、躁にも爽にもどちらにも行く可能性を秘めた芽だと思う。

そんな時(鬱で無い時)、理性のシンボルである青い色を見ると、暴走しない(躁にならない)で、爽になれると、思いついたのである。そこで、斎七さんという方が作った、海のような青色をバックに白い花という、このテンプレートに注目したのだ。

私は、ヤル気の出ない時は、ブログを書かない(コメントが来てなければ自分のブログを開かない)傾向があり、それは今後も続くと思われる。つまり、爽と躁の芽がある時に使用することの多いブログなのだから、爽やかで、鎮静・落ち着き効果のある青を使うことにしたのである。
そういうわけで、ブログはインテリアと違って、青系が私に合っていると思うに至ったのである。爽を狙った色(テンプレート)なのである。

今回の記事タイトルでは、躁の代表をとりあえず赤としたが、心の色について、及び、躁と爽の違いは、また書いていくつもりだ。


この3カ月ほど、空の色が冴えないことがずっと気になっていたが、今日の午後はきれいな色の青空が見られて嬉しくなった。ここのとこの雨で、空の汚れが流されて、クリーンになったのかも。清々しく、爽やかだ。

引っ越すなどと書いたばかりだが、やはりこのURLのまま続行しようと思う。

双極Ⅱ型というのは、鬱と軽躁(軽度の躁)を繰り返すことなのだが、私の場合は、軽躁など無いと言ってよく、軽躁よりもさらに軽いもので、弱躁とか微躁とか、名付けた方がよさそうである。でも変な言葉を作るのもどうかと思うので、軽躁ぎみ、と呼んでおこう。しかも、デパケンを飲むようになってからは、めったに出ないし、あっても数時間から2-3日である。

双極Ⅱ型の他に、双極Ⅲ型(3型)などというものも、実はある。私がそうだということではないが。

私は、大体いつも気力が無いが、たまには元気であることもある。
気分は、鬱の時や、軽い鬱の時もあるし、又、鬱というほどではないが何事も楽しく感じられない時もある。反対に、爽やかな気分の時もある。
ヤル気が出ない時もあれば、ヤル気ばかりが湧いてくるのに、爽やかでも元気でもなく、うまくいかない時もある。
でも、この最後の点については、うまくコントロールすれば爽やかさや元気を引き出すことができるのではないかと、今日、ふと思った。それは、意志の力で躁(軽躁ぎみ)にならないようにするコントロール法でもあると思う。(誤解を避ける為に言っておけば、一般論としては、意志の力で躁を防げると思うのは危険だが、私ぐらい軽度なら、自己コントロール法が有効に思える。逆は無理で、鬱を治したりヤル気を出したりする方向に関しては、意志の力ではどうにもならず、薬に頼るのが好きだ。)

清々しい、爽やかな気持ちになれたらいいな…。


前に書きかけだった記事を、うまくまとめて完成させることができず、そのままになっていたが、書きかけのメモで申し訳ないが公開することにした。5月の後半だったか、6月だかに書いたものである。

-----------      一歩一歩、バランスの良い動き方に向けて      -------------

1歩目:昨年の終わりから、買い物で疲れるのを防止する為、一回の買い物にかける時間を減らすべきだと考えた。(2-3時間に及ぶせいもあって、体が疲れてしまうのだ。) その方法として、毎日必ず買い物に出ることにした(はっきりした理由のある日だけは行かなくてOK)。
たとえ、まとめ買いの方が能率が良いとしても、疲れてダウンしては意味がない。また、なるべく毎日外に出るよう心がけなければ、引きこもりのようで不健康だ。つまり家の外に出ることはリハビリも兼ねているのだ。
そのように考えてからは、軽躁的にホームセンターでハッスルして、疲れてダウンということがなくなった。

2歩目: 5/12の記事「テンション下がってって我に返る時」にあるように、根を詰めることで疲れてしまうことへの気づき

3歩目:根を詰めることで疲れてしまわない為の具体的方法
(頭脳を使った後は、体を動かすタイプの家事をするなど模索中)

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以上の方法で、少しは疲れにくくなっているような気がする。


このごろは、食器洗いをわりと溜めずにできている。時には溜めてしまう時もあるが。

洗濯も、だいたい毎日やっている。でも、たまった冬物までは、まだ消化できていなくて、どっさり溜まっている。毎日、干したり、畳んで仕舞ったりするのは、意外に手間暇がかかる。

家の中のあらゆる所に、物が山積みになっているが、少しずつは片付きつつある…と思う。たぶん。
私だけでなく家族全員が散らかすので片づけは大変だ。毎日少しずつ片づけをしている。

買物は、ネットスーパーが中心だが、そこで入手できない物は買いに行っている。

料理は、あいかわらずしていない。ほとんどの日は、スーパーのお惣菜をチンするだけだ。または、さしみをパックから皿に移すだけとか。
時には、既に塩味のついた鮭などの切り身を、ガス台の引出のような所に入れて焼くこともある。そんな日は、「今日は料理をできた」と満足する。普通の人の基準では、料理の内に入らないはずである。もっと料理らしいものと言えば、牛や豚の薄切り肉を、味を付けずにゆでるだけである(各自がしょうゆか市販のたれをかけて食べる)。
つまり、切りもせず、味もつけずでも、ガス台を使った日は、「私は料理した」と思い込んでいるのである。しかもそれは月に3-6回位しかしない。他の日はもっぱらチンするのみなのだ。

副菜として、洗っただけで何もしないきゅうりとか、チンした冷凍野菜を添えるが、忙しい時は、それすらできない。
夕食がそうなのだから、朝・昼は推して知るべし。白飯に毛が生えた程度。湯を注ぐだけの味噌汁か、又は納豆かソーセージが付く程度である。
こんな食生活で大丈夫なのだろうか。特に成長期の子供が。
5年ぐらい前、由々しき事態と思って行政に相談したのだが、取り合ってくれなかった。

その程度の家事しかしていないのにかかわらず、時間も気力も足りなくなり、自分の清潔は後回しになってしまう。入浴・歯磨きなどである。それでは身体がさっぱりしないので、よけいに、軽い鬱が治らないという、悪循環である。
子供が入浴・歯磨きを面倒くさがるのは、私が率先してやらないからだろう。


前回の記事にコメント下さった方、お返事できず申し訳ありませんでした。実は、勝手にドグマチールを服用したので、バチが当たり、体調を崩していました(たいしたことはないですが)。
それというのも、ドグマチールの副作用として有名な、乳房のこと…。恥ずかしいんですけど、おっぱいが腫れて微熱が出てしまったんです。
乳腺症で熱が出る人は、珍しいでしょうね。というのは、菌が入って熱が出る乳腺炎とは違い、乳腺症は病気ではないですからね。
病院に行ったのは、とても面倒でしたが、乳ガンなどではないことがわかったので、良かったとしましょう。マンモグラフィーは、痛くなかったですよ。
もうドグマチールをのんだりしてないので、症状は治まってきました。
ドグマチールの他に、ドーパミンに作用する薬に、エビリファイがあると聞きましたが、ドクターに相談してみようかな…。飲んでる方いらっしゃったら、教えて下さい(服用感、使用量など)。

この病気になってから、藁にもすがる思いで、ダイニングルームの高い所に神社のお札をまつっている。
神棚は、ホームセンターで買った。幅15センチ・高さ30センチぐらいの小さな物だ。値段は安かったが、素朴な白木に、少しだけ金色の飾りがついていてステキだ。

この神棚の後ろに、まさに「お守り代わり」の薬が置いてある。
ドグマチールとアモキサンである。

以前処方されていた薬が、まだ余りがあるうちに処方変更で要らなくなってしまうことがある。
ルボックスは、捨てた。
アモキサンは、だいぶ捨てたように思うが、10mgカプセルが3シート残っている。
ドグマチール(50mg錠)は、1シートとちょっとしかない。どうしてもっていう時に頓服できるように、大事に大事にとってある。
デジレルはどっさり余っているのだが、この薬だけは余っている理由が他のとは違う。上の3つの薬と違って、今も処方されて飲んでいる薬だ。余分が出ている理由は、書くと長くなるので今はやめておくが、主治医の指示をよく守り、不正なことは行っていない。どのみちこれは、捨てようと思っている(以前の余りを)。

神棚に話を戻そう。即効性のあるアモキサンとドグマチールをいざという時に頓服できるように、神棚の後ろに置いてある。椅子の上に立たないと取れないように、わざとしてあるわけだ。それを飲むのは主治医の指示に反することなので。
結局、アモキサンは、必要がなくて、使っていない。捨てようと思う。私を救ってくれた、考え方すら変えてくれた、大好きな薬だが、やめてから何年もたつ。テンションを高める方法は、他にもある。
大切なのは、ドグマチールである。

3日前、朝起きたら、突然鬱になっていた。原因は別に思い当たらない。そして数時間寝たが、いやな夢ばかり見る。起きてからもいやな気分がとれず、ぼーっと座ったまま、何もできないまま、1日がすぎようとしていた。
でも私は、ひらめいた。椅子の上に立って、ドグマチールを取って、1錠を半分に割って飲んだ。これくらい、いいよね。1日3錠(150mg)飲む人から見れば、6分の1の量(25mg)だもの。鬱でも1日300mg処方される人もいるらしいから、そこから比べれば、12分の1だ。
のむとすぐ、癒され、幸せな気持ちになった。寝る時間まであと2時間ぐらいあるので、その間に家事をやっちゃおう、と体を動かしてゆく。ルンルン気分なので、もっとやりたいところだったが、夜更かしはよくないので、普通に寝た。
翌日、何事もなく、いつもの私である。昨日の鬱は何だったのだろう。
本当に、ドグマチールはすごい。

学校に給食がある事は、当たり前の事ながらも本当にありがたい。私のこの言葉を見て読者の皆さんの多くは、「そうだよね。毎日お弁当作りだったら大変だもんね。」と思うに違いない。私の場合は、毎日弁当箱を洗うところを想像しただけで、げんなりする。(←ってオイ、そこかよ。)
今月のとある土曜日、小学校で運動会があったので、弁当を持たせた。運動会の後、息子(小2)は、からの弁当箱を、すぐに流し台に出しておいてくれた。なのに私は、5日もたってやっと弁当箱を洗ったのだった。(水筒は、その日のうちに洗った。また、弁当箱も当日中にサッと拭いておいた。) 

で、5日も経ってやっと、息子の弁当箱を洗っている時、ふと、私は思った: 

「アレ?上の子(小6の娘)の弁当箱は??」

娘に訊くと、出した筈だというが、無いと私が主張し、自分の部屋を探せと言うと、しばらくして、弁当箱と水筒2本が出てきた。弁当箱はやばいことになっていたとみえて、さすがに反省した娘はコソコソ洗面所で軽く洗ってから私に出した。それを私が仕上げ洗い。水筒の中のカビを取るのも苦労した。 

ところで普段の給食について言うと、学校には毎日、学校から支給された箸セット
を持っていく決まりがある。
下の子は、毎日学校から帰ってくると、約束通りちゃんと、箸セットを台所に出しておいてくれるので、それを私が洗って、毎日持たす。(こういう病気の私にとっては、さぼらず必ずその日のうちに洗うのは面倒だが、学校の決まりなので仕方ない。)
これが上の子(娘)の場合、私が声をかけるまで忘れていて出さないことが多かった。今では、自分で洗うべき年齢なので、そのような約束にしてあるのだが、洗わないことが多い。毎日(使うたびに)洗わないと汚いよと、口を酸っぱくして言っているのに。 

さらに言えば、娘の御飯茶碗と箸とコップは自分で洗う約束にしてあるのだが、何日も洗わず、汚いままで使っている。見かねて私が時々洗っている。 

娘は、一度食べ物や唾液のついた箸・食器を洗わずに何度も使いながら、なぜお腹をこわさないのだろうか…不思議である。 

世話も、しつけも、大変である。  


この頃、不思議な事に気づいた。気づいたのは、確か、ここ3週間以内だったと思う。以前には思いつきもしなかったことだ。

日頃、色々な物事がなかなか進まず、時間が全然足りず、やるべきことがちっとも片付かないのが悩みなのだが、気づいた事とは、「実は、急いでやるよりも、わざとゆっくりやった方が、はかどる」という、不思議な事実である。

ミヒャエル・エンデの「モモ」の中で、カシオペイアという名の亀が、そのような現象を表すシンボルとなっていた。急いで行くと、たどりつけず、ゆっくり歩けば歩くほど、速く進めると書いてあった。
あれを読んだ時は、たかがおとぎ話と思い、深い意味は考えなかったが、20年以上たって突然、そのことの意味について感じるとは不思議なものだ。 

これからは、いたずらに急ぐことなく、自然体でやろう。そう思ってからは、無駄な動きが減ったのか、入手困難な航空券を朝一番の素速い(落ち着いた)動きによって、ゲットできるという幸運も舞い込んできた。 

ただし、ゆっくりやった方が速い、というのは、誰にでも当てはまるとは思わない。
有能な人の素早い仕事ぶりに、私のゆっくりの動きで太刀打ちできるとは、思っていない。
ただ、いたずらに慌てて、疲れるばかりで何も成し遂げられないよりは、落ち着いて物事を行った方がいいと悟ったのである。


昨日・今日は、湿度も低く、きれいに青空が見えた。心がほぐれてゆく。
今日は、窓を全開にした。家に居ながらにして、そよ風が体を包み込んで流れていくので、夢のように心地よい。なぜ夢のようかというと、私は寒がりなので、今日ぐらい暖かくなってやっと窓を開けられるからだ。又、寒い時期だけでなく、逆に真夏は窓を開けると暑いので、窓の開けられる季節は短く貴重だ。湿気の多い日は北と南の窓を開けても全く風が流れない(淀む)せいもあって、家の中を心地よい外気が流れる日は稀有なのである。
気づくと家の中の湿度は20%台に。こんなに乾いても、リップクリームさえ塗れば何も困らない私って一体…。
16時になり、窓全開は寒くなってきたので、換気窓以外は閉めた。そして、ズボンをフリース生地のに穿き替えた。どんだけ寒がりなんだ。しかもなぜか汗っかき体質…。
5月は鬱になりやすいけど、6月に入るととたんに治るのも不思議だ。窓を開ける日が増えて、健康的になるからか?

5月13日(金)
10日から昨日まで雨が3日も続いた。今日は、やっと晴れ。あまりすっきりした空ではなく、薄い雲が広がっている。湿度も高い。でもさすがに、雨が降るのはありえないと思っていた。
今、18じすぎ。珍しく、窓の開かない部屋に籠ってこれを書いている(物音なども聞こえない)のだが、突然、にわかに、鬱気分を感じる。心の中に、サーッと暗雲が広がってきたのだ。その直後、子供が、「雨が降ってきた」と知らせてくれた。偶然とは思えない。-----私の才能を生かせば、気分を用いて直後の現地の天気が予報できたりして。では、今からリビングの窓から外を見にいこうっと。

やはり降っていた。
湿った日がこうも続くとつらい。私は湿度が少しでも高いと、それが苦手なのだ。本格的に鬱になったら嫌だから、5月の湿気対策をちゃんとやらないと。1つはサーキュレーターや扇風機なども少しずつ利用しながら、家の中に空気の流れを作ること。これで体にまとわりついている水蒸気が少しは飛び、不快感が減る。窓を開けたり換気したりすると却って不快になる時は、外気を遮断して除湿機をかける。除湿機は、我が家ではワット数がエアコンの6分の1未満(エアコンの除湿だと、寒くならないようにしながら少しずつ湿度を下げていくか、除湿を優先して温度を下げるかになるのだが、その点、除湿機なら室温が下がることは全くありえず、微妙に上がるくらいで、その点もメリット大)である。タンクにどんどん水がたまるからお風呂に利用することもある。。もう1つは、辛い物を食べる事で体内の湿気を発散する。私は、辛い物好きではないので、気をつけないと摂取を忘れる。余談ながら、汗っかきなので夏になったら辛い物は食べない。
さらに余談ながら、秋は乾燥した日が続くので、風の流れはあえて作らず、換気の時間以外は窓を閉めたり、換気扇を止めたりする。春は湿気に注意、秋は乾燥に注意というのが、私なりに独学で学んだ東洋医学の養生法の一部だ。

5月14日(土)
朝、起きてみると、昨日までのことが嘘だったかのように、湿度が下がっている。 カラリとしていて、気持ちがいい。湿度計を見ると、いともたやすく50%を割り込んでいる。気持ちがいい。
昨日までの湿気を根こそぎ追い出したくて、家じゅうの窓を全開にし、換気扇もマックスにした。(換気扇は、24時間換気や計画換気の物ではなく、手動の普通の換気扇だ。)
参考までに、昨日と比較した結果をのせておく。
昨日は、窓と換気扇を工夫して換気後、60%を上回っていて、そのあと、外気を遮断し除湿機かけて何とか60パーセントを割り込むことができた。今日は、部屋にもよるが、28%から35%位となった。喉がカラカラだが、それでもいい。湿気るよりずっといいのだ。(一応マスクをつけて喉などを守った。)
爽快だ。さっぱりした。


5月12日
 時折鬱気分がよぎるが、今の所なんとかうまくかわしているところだ。意外といつも通りに動けた。(普通の人のようには、全く物事をできないのは言うまでもないが)
 具体的には、食器を30枚洗い(そんなに洗い物溜めるなって)、入浴・洗髪もできた。(逆に言うと、他には何もしていない。) 

 長時間鬱気分が続くのではなく、よぎるだけなので、何とか助かっている。テンションが下がっていることは確かだ。
 我に返ってみると、軽躁傾向の時は、ある意味、頑張りすぎだった。「ある意味」とはどういうことかというと、頑張りすぎという言葉には、2つの意味があることに気づいたのだ。
 以前イメージしていた方の頑張りすぎは、鬱になる人の多くに言えること(鬱になってない人でもそうだが)で、責任感の強さや真面目さにより、やるべき事について頑張って、義務を果たそう、任務を全うしようとしている状態。
 それに対して、4/15にブログを始めてから昨日ぐらいまでの私は、(肝心のブログの記事そのものは、普通に書いていただけだが、)アクセスを増やすためにあの手この手を無意味に使ったりして、たくさん時間を使ってしまっていた。軽躁混じりだったかもしれない。パソコンばかりにのめり込み、家事などのやるべき事はできていない、義務を果たしていない状態だった。自分は、楽しみに溺れてしまって、何と意志が弱いのだろうと思い、また、自分を不真面目だと思い、なんとか真面目になりたいと、試行錯誤するのだがうまくいっていなかった。そんなダメな私が、頑張っているとは、全く思っていなかった。
 しかし、度を越してのめり込むことは、自分に負担がかかって疲れてしまうので、鬱を招きかねず、これもある意味頑張りすぎだったのだろうと、今日気づいたのである。

 読者の皆さんの多くは、真面目な頑張りすぎであって、人の為を思って、つらく苦しいことも忍耐したりする。私は、(基本的には真面目で責任感が強いのだが)時によっては、不真面目で、自分の為で、楽しい頑張りすぎをしてしまう(軽躁の一種かもしれない)。頑張りすぎの2種類と言ったのは、そういうことだ。どちらも、鬱を招き、つらい結果をもたらす。

 そのように考えるうち、私が好きなことにのめり込んでしまわないようにすることには、今迄と違う意味付けができると思えてきた。ただし、前段と論理的整合性は無い(というより、うまく説明できない)。

 今までは、のめりこんでいればその時はいいけれど、それだと、洗濯物と洗い物が溜まったり、家の中が散らかったり雑用がたまったりしてしてしまって、結局憂鬱になるし、洗面・入浴・洗髪はしないは外気は浴びないはでは、健康に悪影響をもたらして心身一如によりまっさきに精神に変調をもたらす、と考えていた。
 その考えは完全に正しいのだけれど、後から悪い事が起きるのではなく、のめり込んでいるその瞬間に既に、自分に対して大きな無理をしているのであって、のめり込まない方が、楽なのかもしれないと思うようになった。
 そうすると、いままで意志の制御が大変だったけれども、意外と肩の力を抜いた別の方法でうまくいくかもしれないと思うようになったのだった。


少したまっていた洗濯物を半分ぐらい洗濯できた。
台所で悪臭を発していた食器は、漬けてある分を全部洗い、漬けてないものは明日洗うべく漬けた(20枚以上ある。)
それができた代わり、お風呂に入るという目標が達成できなかった。何日も髪がべとついたままで、その点は気持ち悪い。

今日も、洗濯と洗い物ができなかった。でも今日は、食料品の買い出しの他に、子供の靴と薬、夫のワイシャツを買ってきたので、がんばったと思う。

そうそう、去年、夏が終わったあと、タオルケット約4枚をしまうべく、一枚ずつ洗濯していったが、まだ最後の一枚が洗濯してない。また夏になってしまうではないか。夏物の服も少しずつ洗っているのにまだ洗えてないのがある。
シーツも何か月もとりかえていない。不潔だ。でも、気力体力共に無い。

  右側プラグインの、本来プロフィールを書く欄に、事情により別の事を書いたので、代わりにここらにプロフィールを書くことにした。
  住んでいる所は、お日様のよく照る地域。小6と小2の子供がおり、夫との4人家族。子供達にはいつも申し訳ないことをしている。鬱がひどかった頃は、「ママー、おなかすいた」というコールが私には恐怖だった。ろくなものを食べさせてないせいか、2人とも全然背が伸びない。家の中は絶対他人に見せられない恥ずかしいことになっているのだが、私は、相手が子供なら自由にあがらせてしまう。その子がまだ低学年だったり女の子だったりすると、「どうして@@のおうちは汚いの?」と無邪気に言う。子供がいじめに合ったりしたら、絶対私のせいだ。子供は2人とも、どうしてうちのママは普通のお母さんと違うのだろうかと不思議に思っていると思われる。
   私が主婦という立場であることは、以前の記事でバレバレだったかもしれないが、今まで明言を避けてきた理由はこうだ。自分と同じように何か病気やハンデを背負っている人のブログをたくさん見たのだが、中には私と同じ病気なのに会社を休職せずに死ぬ思いをして働いている人や、休職しても又復職したりしようとして頑張っている人もいる。それに比べて、私は夫の稼ぎで養ってもらっていることを考えると、仕事をしている人に申し訳なくてたまらないのだ。それでも家事や母親業をちゃんとやっているならまだいい。しかし、料理はめったにできず、掃除などはここ数年全然していない。色々な面で、私は家族3人にとってお荷物だと思う。又、自分自身のこともできず、たとえばお風呂に10日も入れない(健康な頃だったら考えられないことだ)こともザラだ。
 そして、このブログのことでも葛藤をしてしまう。更新するのがおっくうという気持ち、でもネットが私の救いの場所・どうしても自分の意見や感想を発表したりネットで人とつながりたいという気持ち、そしてネットする気力があるなら家事をやれという、自分の内なる声がする・・・。

アラフォーの私が抱える問題は、十代までさかのぼります。性格は、集団に尽くしたり、集団の和にとけこむのが好きでした。
中三の時、普段以上に明るく気分が良く、気合いもバッチリ、何をやってもうまくいくという一年間で、目に映る物はみな美しく、この世界の全てのものに感謝(神様に感謝)していました。
その後、16歳の時、これといってストレスや原因・きっかけもなく、気分変調症(気分変調性障害)にかかってしまったもよう。今までの明るい自分から、急に変わってしまったことにとまどいながらも、こころ(脳?)の病気だとは気付かず、自力で元の自分に戻ろうと頑張ってきました。しかし、なかなか、「普通」には戻れず、自己評価はどんどん下がっていきます。

20年近く経った30代の時、ついに「大うつ病エピソード」を発症し、精神科に通院するようになって6年。「大うつ病エピソード」は、薬がよく効いて寛解しましたが、それ以来、よくなったり悪くなったりを繰り返すように。
双極Ⅱ型のような治療を受けていますが、実際には軽躁は無いと言ってよく、双極2.5型から3型、あるいは反復性短期抑鬱性障害と言ってよいでしょう。

現在のお薬は、デパケンR、デジレル、安定剤、入眠剤です。

もともと罹患していた、気分変調性障害と、現在の、反復性鬱病の関係が重要です。両方の病気にかかっているのです。
反復性鬱病の寛解期の時は、気分変調性障害の鬱(軽い鬱)がずーっとあります。
反復性鬱病の鬱が出ている時は、気分変調性障害の鬱と反復性鬱病の鬱の両方が重なってしまいます。これを、ダブルデプレッションと言います。(デプレッションは、英語で鬱のこと。だから、ダブルの鬱ってこと)

気分の変化は、徐々に起きることもあれば、急激にサッと曇ったりストンと落ちてしまう(ムードスイングというのでしょうか)こともあります。シングル鬱からダブル鬱に落ちてしまうのです。

ダブル鬱を、日本語に訳して、双鬱として、2011年9月30日に「鈴原まり音の双鬱」としました。「双極性鬱病」を省略しても「双鬱」になりますしね。

その後、又、以前のタイトルだった「鈴原まり音の爽鬱」に戻しました。楽しそうで躁鬱的なタイトルの方が、鬱なのに前向きで希望を失わない私にふさわしいと思って。そう、私は、絶対に諦めません。

この説明文は、本当はブログの表紙を作ってそこに書きたかったのですが、表紙の作り方がわからないので、日付設定を過去にして、ブログの最初に載せました。

私は、貴重な青春時代を悲しく過ごしてしまった残念さ、そして今、鬱が鬱を呼び、自分がどんどんダメになっていくのではないかという不安感でいっぱいです。

主治医の許可を得てブログを開設しましたが、鬱期には更新やお返事が遅れるかもしれないので、悪しからずご了承お願い致します。

尚、このブログでは、古い記事にもコメントいただくことが可能です。