×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
昨年、指揮者 佐渡裕 氏の著書『棒を振る人生』を読んで素晴らしく感銘を受け、
高校生の時に今の道に進もうと思うよりも前の自分を思い出した。
それで、カウンセリングでそのようなことを話したら、カウンセラーからは、
結局私はどうしたかったのかという問いを突きつけられたような気がした。
それこそ、今の道に進んだことがまるで人生を棒に振ったのか、、、
だから私は無理のある生き方をして、それがたたってこのような病気になってしまったのかと、
それ以来数カ月考えてきた。
でも今日、ふと、答えが見えた。
以前にやりたかったことと、
そのあと決めた目標と、
その2つは決して、
相反するすることではなく、融合するものであり、
両立可能、いや当然私にとっては両立してしかるべきものであると気づいたのだ。
言葉では説明するのは難しい。キーワードは「歌」だ。
そして私は、「ドレミの歌」などをくちずさみつつ、今日も家事をするのである。
高校生の時に今の道に進もうと思うよりも前の自分を思い出した。
それで、カウンセリングでそのようなことを話したら、カウンセラーからは、
結局私はどうしたかったのかという問いを突きつけられたような気がした。
それこそ、今の道に進んだことがまるで人生を棒に振ったのか、、、
だから私は無理のある生き方をして、それがたたってこのような病気になってしまったのかと、
それ以来数カ月考えてきた。
でも今日、ふと、答えが見えた。
以前にやりたかったことと、
そのあと決めた目標と、
その2つは決して、
相反するすることではなく、融合するものであり、
両立可能、いや当然私にとっては両立してしかるべきものであると気づいたのだ。
言葉では説明するのは難しい。キーワードは「歌」だ。
そして私は、「ドレミの歌」などをくちずさみつつ、今日も家事をするのである。
PR
私は46歳の専業主婦(16歳と11歳の子供あり)だが、よく、次のような夢を見ることがある。
・主婦初期(子供なし)の頃に働いていたファストフードで、また、バイトしている。
・子供が大きくなって手が離れたこともあり、結婚前に働いていた会社にまた雇われている。
・何故か、もう1度大学に入学して、通っている。
・何故か、もう1度高校に入学して、通っている。おばさんなのに。
昨夜の夢は、4つめ、高校というパターンだった。
実際にそういうことがあったとしたら、誰の目から見ても中年であることは明らかで、制服を着ていることは気色悪いことこの上ないだろうが、夢の中では、年齢を秘密にしている。うまく隠しおおせていることが多い。
このような高校の夢の中では、イケメン或いは気が合いそうな男性(もちろん、高校生かせいぜい大学生)との出会いがあり、恋に発展するかもと少しワクワクするのだが、眠りが浅くなるに伴い、夫が待つ家に帰宅し、現実に戻るというパターンが多い。
昨夜の夢は、ほぼこのパターン通りだったが、印象は少し違っていた。
年齢は、初めはまず、バレていなかった。
同級生の男性のことが気になっていた。彼は、何か大切な物を失って(例えば聴力とか←だとしたら普通科高校に通っているのは不思議だが。いや、親がいない、というようなことかもしれない。)いて、そのようなハンディキャップを努力で補っている経験は貴重で、多くの人に知られるべく、道徳の教科書にも掲載されて(以前インタビューを受けたのだ)いるのだ。
彼への私の思いは、他の夢の時のようなものではなく、強い片思いだった。
何らかの事情があって、彼と口をきくことができず、いつか、そのしばりが解けて、話が出来る日を今か今かと待ちわびて、というかチャンスを作り出そうとしている。
しかし次第に、自分の老けた外見がバレるのではないかと気になる。
もっとも、意中の彼も、ただの高校生ではなさそうだ。
そのあとは夫と子供のいる自宅でのシーンになっていて、私は高校生(大学受験生)にふさわしく、一生懸命勉強していた。自分の中での理解を深める為の歴史年表を作っていて、それはそれは集中して取り組んでいた。
休日なので夫がおり、夫は子供達に「お~い、今日は○○へ行くぞ~」と音頭を取り、子供達は「え~~めんどくさい~。ねえパパ、ママも行くの?」 夫「ママは勉強が大変だからいいんだ」と私に都合のよい流れ。
(現実には、ジャスト1年後にセンター試験を受けるのは娘のほうなんだが。)
夢のこの部分は、何かに没頭したい私の気持ちがよく表れているのだろう。
したいというより、実際に、今このように、朝からブログ書きに没頭しているのだが。
このあとのストーリーは、夫と子供が出かけて、私は家で1人で、またあの、何か抱えている男性に思いを馳せるのだろうか。
目覚まし時計が鳴っても、しばらくぼんやりしていた。
・主婦初期(子供なし)の頃に働いていたファストフードで、また、バイトしている。
・子供が大きくなって手が離れたこともあり、結婚前に働いていた会社にまた雇われている。
・何故か、もう1度大学に入学して、通っている。
・何故か、もう1度高校に入学して、通っている。おばさんなのに。
昨夜の夢は、4つめ、高校というパターンだった。
実際にそういうことがあったとしたら、誰の目から見ても中年であることは明らかで、制服を着ていることは気色悪いことこの上ないだろうが、夢の中では、年齢を秘密にしている。うまく隠しおおせていることが多い。
このような高校の夢の中では、イケメン或いは気が合いそうな男性(もちろん、高校生かせいぜい大学生)との出会いがあり、恋に発展するかもと少しワクワクするのだが、眠りが浅くなるに伴い、夫が待つ家に帰宅し、現実に戻るというパターンが多い。
昨夜の夢は、ほぼこのパターン通りだったが、印象は少し違っていた。
年齢は、初めはまず、バレていなかった。
同級生の男性のことが気になっていた。彼は、何か大切な物を失って(例えば聴力とか←だとしたら普通科高校に通っているのは不思議だが。いや、親がいない、というようなことかもしれない。)いて、そのようなハンディキャップを努力で補っている経験は貴重で、多くの人に知られるべく、道徳の教科書にも掲載されて(以前インタビューを受けたのだ)いるのだ。
彼への私の思いは、他の夢の時のようなものではなく、強い片思いだった。
何らかの事情があって、彼と口をきくことができず、いつか、そのしばりが解けて、話が出来る日を今か今かと待ちわびて、というかチャンスを作り出そうとしている。
しかし次第に、自分の老けた外見がバレるのではないかと気になる。
もっとも、意中の彼も、ただの高校生ではなさそうだ。
そのあとは夫と子供のいる自宅でのシーンになっていて、私は高校生(大学受験生)にふさわしく、一生懸命勉強していた。自分の中での理解を深める為の歴史年表を作っていて、それはそれは集中して取り組んでいた。
休日なので夫がおり、夫は子供達に「お~い、今日は○○へ行くぞ~」と音頭を取り、子供達は「え~~めんどくさい~。ねえパパ、ママも行くの?」 夫「ママは勉強が大変だからいいんだ」と私に都合のよい流れ。
(現実には、ジャスト1年後にセンター試験を受けるのは娘のほうなんだが。)
夢のこの部分は、何かに没頭したい私の気持ちがよく表れているのだろう。
したいというより、実際に、今このように、朝からブログ書きに没頭しているのだが。
このあとのストーリーは、夫と子供が出かけて、私は家で1人で、またあの、何か抱えている男性に思いを馳せるのだろうか。
目覚まし時計が鳴っても、しばらくぼんやりしていた。
イギリスの古い謎謎。(答えは「時間」)
この世界の中で 一番長くて一番短いもの
この世界の中で 一番はやくて一番おそいもの・・・
この言葉を聞いた、高3の6月、私は、「時間や歳月に、ついていける人と、ついていけない人がいる。時間に勝つ者と、時間に負ける者がいる。私は高校生活で一体何をしてきたのか。何もできなかった。私は敗者だ」
そう思った。
誇りが完全に打ち砕かれた瞬間だった。
誇りが打ち砕かれて、その後、生きていけるか?
今私が、生きているということは、いくらかは誇りを回復したからであろう。
しかし、劣等感が強いところをみると、どうしても、誇りが打ち砕かれた時の印象を引きずっているというか、上記のイギリスの言葉が、自分がダメであることのシンボルとなって、脳裡に強烈に残っている。
誇りを砕かれる象徴的シーンがあるなら、誇りを回復した象徴になるようなシーンがあれば勇気が出て安心して強く生きられるのではないか。
何をすれば誇りを持てるのか。
成功すれば、と思う人もいるかもしれないが、私なら、努力したならば、と答える。
成功によって得られるものは、誇りとは少し違う。
精一杯頑張った日があったのなら、誇りが取り戻せると思う。
たとえ今が、与えられた状況の中でベストを尽くす程度の毎日であって、全力投球まではできない日々であっても、過去に、全力投球した日があれば、誇りは取り戻せるのではないだろうか。
18歳の9月、私は、大学のクラブのオーケストラの合宿を初めて体験した。1日の練習プログラムは、高校の時の部活ほどハードではないにせよ、1日トータル9時間半。しかも、5~6泊もある長い合宿。いつもと違う枕で大部屋で寝るのがそんな長期に渡るなんて初めてだから、それだけでも疲れる要素だ。
そもそも、オーケストラに入りたいあまり、未経験だったチェロを始めて、毎日コツコツ練習していたというだけでも、小中学生の頃の私とは大きく違う。小中学生の頃、例えばピアノは、ちゃんと練習しないのでよく先生に叱られてた。商売だからあまり強くは言わないけど。
それに中学を卒業するまでは、あまり勉強しないで良い成績を取っていて、高校に入ったら、勉強しない習慣が仇になって、数学や物理などは授業に全然ついていけなくなったような人間だ。
そんな私が、大学に入って、チェロを毎日コツコツ練習していた。そして初めて曲をもらってオーケストラの一員として定期演奏会のステージに乗ることになった。演奏会の曲目は、Sというタイトルの短い序曲と、交響曲などの長い曲が2曲の、計3曲で、私が参加するのは、Sだ。
まだ1年生なので、短い曲1曲だけなのだ。
9月の合宿で、その3曲の練習がみっちり行われた。
合宿中は、序曲Sの練習の時間になると、その部屋に行って練習に参加。それ以外の時間は、個室で個人練習をしていた。
この合宿中で、一番強い印象が残っているのが、序曲Sの練習が全く無かった日だ。私はその日、当然ながら、1日中、個室で1人で個人練習をしていた。1日9時間半も、1人で練習し続けるのがどんなにキツいことなのか私は知った。皆で練習しているのであれば、先生が注意や説明をしている時間や、他のパートだけで弾かされている時間もあって、弾いている時間の正味は大したことない。
それに比べて1人だと弾きっぱなしだ。
折しも、疲れもたまっていた。夜は時々、飲み会に参加してハメをはずし、寝るのが遅くなる日も多かった。
しかし、私は弾き通した。午前中3時間、午後3時間半、夜(10時まで)3時間。
だから偉いとか、そんなことを言うつもりはない。別にそんなに頑張らなくても、もっと休憩を取るなりしても一向に構わなかったと思う。
ただ、自分としては満足なのだ。
全力投球して燃焼しきった1日が。
この18歳の1日を、努力した自分、精一杯頑張った自分、全力投球した自分のシンボルとして脳裡に刻めば、打ち砕かれた私の誇りは取り戻せるのではないだろうか。
話は少し変わるが、私は、中3の頃、自分と言う人間の土台というか基礎が完成したように感じていた。人生観みたいなもの。
私の場合は、幼少期~児童期、ぼんやり生きていたので、あまり自我といえるものがなかった。性格的には、個性的でかなり我が強くてしつこいのだが、それは自我とは違う。そうすると、その後の第1次性徴こそが、自我形成において かなり大きな要素を握ることになる。従って、小6~中3の思春期を過ごした結果、「これが自分というものだ」と強く意識する何かがハッキリと生まれたのは、当然の流れと言えば流れではある。
しかし、女子の思春期というのは、大人の現実へスムーズにつながっていく物ではないのが問題だ。
初潮の約一年前に、女性ホルモンのエストロゲンの分泌が始まって急増する頃が思春期の始まりとされる。この時点では勿論のこと、初潮が始まっても、まだ、排卵はないとされている。いつ頃排卵が始まるのかは不明だが、初潮の2~3年後が多数派だと考えられている。
それで私は、エストロゲンの分泌はあって、排卵がない時期を、思春期とみなしている。大人の体ではないのだ。
その後、排卵が始まると、毎月排卵後にプロゲステロンという女性ホルモンが分泌される。
つまり、エストロゲンだけ分泌され、プロゲステロンが分泌されないのが思春期で、大人の女の体は、両方分泌される(ただしプロゲステロンの分泌は毎月約14日間のみ)という、大きい違いがあるわけだ。
私が言いたいのは、思春期に、エストロゲンの本能で、自我の土台を作ったつもりであっても、その後排卵が始まったら、エストロゲンだけで生きられるわけではないから、何もしなければ自我が完成するわけではないということだ。
エストロゲンがもたらす女としての目覚めによって、世界が響き合うような調和に憧れ、コミュニケーションを好むようになっても、それだけでは、少女のままであり、現実で生きていけない。
結局、人間は「本能をいかに現実生活につなげるか」にかかっているのであり、思春期に調和を求める本能が生まれてそれをアイデンティティの土台とするまでは良くても、その土台から何かを築いていくことを高校生の時にできなかった私は、大学に入って、やっと努力で何か築くことができたのである。そうしないとアイデンティテイは確立しない。
(大学に入るまでは夢を現実にするための努力をしなかったということではなく、受験勉強は、遅いスタートではあったが、高3の4月からかなり力を入れるようになり、年が明けて学校が休みになってからは、毎日8時間位は勉強していた。ちゃんと現実に目を向け始めたのが、この受験勉強の頃なのだろう。)
アイデンティティというのは、18歳頃に確立されるべし、というふうに一応学説では なっている(人生ゴムバンド説を念頭におけばもっと遅くまでかかってもいいかもしれないが)こともあり、夢を形にするべく努力したことの象徴である、チェロを練習しまくった18歳の合宿のあの日は私にとって重要なのである。
本能(エストロゲン)が求める調和の響き、それが形となったものがオーケストラ。
夢を現実にするのが、一生懸命楽器を練習すること。
そして夢を現実にする為の明確な自我が、アイデンティティである。
18歳の合宿のあの日は、誇りを取り戻せる根拠という意味でも重要なシンボルだし、夢を現実にする為の努力というアイデンティティの確立が18歳ギリギリすべりこみセーフでできるようになったシンボルとしても重要なのだ。
この世界の中で 一番長くて一番短いもの
この世界の中で 一番はやくて一番おそいもの・・・
この言葉を聞いた、高3の6月、私は、「時間や歳月に、ついていける人と、ついていけない人がいる。時間に勝つ者と、時間に負ける者がいる。私は高校生活で一体何をしてきたのか。何もできなかった。私は敗者だ」
そう思った。
誇りが完全に打ち砕かれた瞬間だった。
誇りが打ち砕かれて、その後、生きていけるか?
今私が、生きているということは、いくらかは誇りを回復したからであろう。
しかし、劣等感が強いところをみると、どうしても、誇りが打ち砕かれた時の印象を引きずっているというか、上記のイギリスの言葉が、自分がダメであることのシンボルとなって、脳裡に強烈に残っている。
誇りを砕かれる象徴的シーンがあるなら、誇りを回復した象徴になるようなシーンがあれば勇気が出て安心して強く生きられるのではないか。
何をすれば誇りを持てるのか。
成功すれば、と思う人もいるかもしれないが、私なら、努力したならば、と答える。
成功によって得られるものは、誇りとは少し違う。
精一杯頑張った日があったのなら、誇りが取り戻せると思う。
たとえ今が、与えられた状況の中でベストを尽くす程度の毎日であって、全力投球まではできない日々であっても、過去に、全力投球した日があれば、誇りは取り戻せるのではないだろうか。
18歳の9月、私は、大学のクラブのオーケストラの合宿を初めて体験した。1日の練習プログラムは、高校の時の部活ほどハードではないにせよ、1日トータル9時間半。しかも、5~6泊もある長い合宿。いつもと違う枕で大部屋で寝るのがそんな長期に渡るなんて初めてだから、それだけでも疲れる要素だ。
そもそも、オーケストラに入りたいあまり、未経験だったチェロを始めて、毎日コツコツ練習していたというだけでも、小中学生の頃の私とは大きく違う。小中学生の頃、例えばピアノは、ちゃんと練習しないのでよく先生に叱られてた。商売だからあまり強くは言わないけど。
それに中学を卒業するまでは、あまり勉強しないで良い成績を取っていて、高校に入ったら、勉強しない習慣が仇になって、数学や物理などは授業に全然ついていけなくなったような人間だ。
そんな私が、大学に入って、チェロを毎日コツコツ練習していた。そして初めて曲をもらってオーケストラの一員として定期演奏会のステージに乗ることになった。演奏会の曲目は、Sというタイトルの短い序曲と、交響曲などの長い曲が2曲の、計3曲で、私が参加するのは、Sだ。
まだ1年生なので、短い曲1曲だけなのだ。
9月の合宿で、その3曲の練習がみっちり行われた。
合宿中は、序曲Sの練習の時間になると、その部屋に行って練習に参加。それ以外の時間は、個室で個人練習をしていた。
この合宿中で、一番強い印象が残っているのが、序曲Sの練習が全く無かった日だ。私はその日、当然ながら、1日中、個室で1人で個人練習をしていた。1日9時間半も、1人で練習し続けるのがどんなにキツいことなのか私は知った。皆で練習しているのであれば、先生が注意や説明をしている時間や、他のパートだけで弾かされている時間もあって、弾いている時間の正味は大したことない。
それに比べて1人だと弾きっぱなしだ。
折しも、疲れもたまっていた。夜は時々、飲み会に参加してハメをはずし、寝るのが遅くなる日も多かった。
しかし、私は弾き通した。午前中3時間、午後3時間半、夜(10時まで)3時間。
だから偉いとか、そんなことを言うつもりはない。別にそんなに頑張らなくても、もっと休憩を取るなりしても一向に構わなかったと思う。
ただ、自分としては満足なのだ。
全力投球して燃焼しきった1日が。
この18歳の1日を、努力した自分、精一杯頑張った自分、全力投球した自分のシンボルとして脳裡に刻めば、打ち砕かれた私の誇りは取り戻せるのではないだろうか。
話は少し変わるが、私は、中3の頃、自分と言う人間の土台というか基礎が完成したように感じていた。人生観みたいなもの。
私の場合は、幼少期~児童期、ぼんやり生きていたので、あまり自我といえるものがなかった。性格的には、個性的でかなり我が強くてしつこいのだが、それは自我とは違う。そうすると、その後の第1次性徴こそが、自我形成において かなり大きな要素を握ることになる。従って、小6~中3の思春期を過ごした結果、「これが自分というものだ」と強く意識する何かがハッキリと生まれたのは、当然の流れと言えば流れではある。
しかし、女子の思春期というのは、大人の現実へスムーズにつながっていく物ではないのが問題だ。
初潮の約一年前に、女性ホルモンのエストロゲンの分泌が始まって急増する頃が思春期の始まりとされる。この時点では勿論のこと、初潮が始まっても、まだ、排卵はないとされている。いつ頃排卵が始まるのかは不明だが、初潮の2~3年後が多数派だと考えられている。
それで私は、エストロゲンの分泌はあって、排卵がない時期を、思春期とみなしている。大人の体ではないのだ。
その後、排卵が始まると、毎月排卵後にプロゲステロンという女性ホルモンが分泌される。
つまり、エストロゲンだけ分泌され、プロゲステロンが分泌されないのが思春期で、大人の女の体は、両方分泌される(ただしプロゲステロンの分泌は毎月約14日間のみ)という、大きい違いがあるわけだ。
私が言いたいのは、思春期に、エストロゲンの本能で、自我の土台を作ったつもりであっても、その後排卵が始まったら、エストロゲンだけで生きられるわけではないから、何もしなければ自我が完成するわけではないということだ。
エストロゲンがもたらす女としての目覚めによって、世界が響き合うような調和に憧れ、コミュニケーションを好むようになっても、それだけでは、少女のままであり、現実で生きていけない。
結局、人間は「本能をいかに現実生活につなげるか」にかかっているのであり、思春期に調和を求める本能が生まれてそれをアイデンティティの土台とするまでは良くても、その土台から何かを築いていくことを高校生の時にできなかった私は、大学に入って、やっと努力で何か築くことができたのである。そうしないとアイデンティテイは確立しない。
(大学に入るまでは夢を現実にするための努力をしなかったということではなく、受験勉強は、遅いスタートではあったが、高3の4月からかなり力を入れるようになり、年が明けて学校が休みになってからは、毎日8時間位は勉強していた。ちゃんと現実に目を向け始めたのが、この受験勉強の頃なのだろう。)
アイデンティティというのは、18歳頃に確立されるべし、というふうに一応学説では なっている(人生ゴムバンド説を念頭におけばもっと遅くまでかかってもいいかもしれないが)こともあり、夢を形にするべく努力したことの象徴である、チェロを練習しまくった18歳の合宿のあの日は私にとって重要なのである。
本能(エストロゲン)が求める調和の響き、それが形となったものがオーケストラ。
夢を現実にするのが、一生懸命楽器を練習すること。
そして夢を現実にする為の明確な自我が、アイデンティティである。
18歳の合宿のあの日は、誇りを取り戻せる根拠という意味でも重要なシンボルだし、夢を現実にする為の努力というアイデンティティの確立が18歳ギリギリすべりこみセーフでできるようになったシンボルとしても重要なのだ。
現実生活から遊離してしまうというのは、単に結果的にそうなっただけであって、現実生活が嫌いなわけではない。
常に何かに粘着していなければ寂しい私は、現実生活の中に対象を見つければそれに粘着するので、むしろ現実との相性は良い方だ。しかし私が強烈に粘着したい対象は、言葉とか文章なので、誰かと話をしている間はそれが最高なのだが、話せる相手がいない時は、活字にのめり込んでしまう。そうして現実から離れて本を読みふけったり、長文を書いたりしてしまうのだ。
そんな時は活字以外の執着対象を見つけるしかないな。例えば、寝転んだりストレッチしたりして意識を自分の身体に向けるとか。
常に何かに粘着していなければ寂しい私は、現実生活の中に対象を見つければそれに粘着するので、むしろ現実との相性は良い方だ。しかし私が強烈に粘着したい対象は、言葉とか文章なので、誰かと話をしている間はそれが最高なのだが、話せる相手がいない時は、活字にのめり込んでしまう。そうして現実から離れて本を読みふけったり、長文を書いたりしてしまうのだ。
そんな時は活字以外の執着対象を見つけるしかないな。例えば、寝転んだりストレッチしたりして意識を自分の身体に向けるとか。
この間、後天的な性格について書いたので、元々持っていた気質についても触れておこうと思う。後天的な性格といえど、元々の気質抜きに語ることはできないし。
簡単に言えば、のめり込みやすい、過集中、凝り性、しつこい。
のめり込む対象は、人間でも、自然でも、趣味的な物事でも、何でもあり。
特に自然には癒される。
趣味的なことは、オタク的に知識を集めたりする。
言葉とか、コミュニケーションとかを好む。だから、本などの活字が大好きだし、ネットでのやりとりも、もちろんリアルでの会話も大好き。
対象と自分とが一体化して(自然や趣味や組織と)いたり、調和して(人間関係や組織と)いたりするのを好む。
つまり、孤独に弱い寂しがり屋。
簡単に言えば、のめり込みやすい、過集中、凝り性、しつこい。
のめり込む対象は、人間でも、自然でも、趣味的な物事でも、何でもあり。
特に自然には癒される。
趣味的なことは、オタク的に知識を集めたりする。
言葉とか、コミュニケーションとかを好む。だから、本などの活字が大好きだし、ネットでのやりとりも、もちろんリアルでの会話も大好き。
対象と自分とが一体化して(自然や趣味や組織と)いたり、調和して(人間関係や組織と)いたりするのを好む。
つまり、孤独に弱い寂しがり屋。
私という人間は、人の役に立つ優れた能力に欠けているのだが、そんな私にも良い所はないかというと、性格診断テストをやると、どんな切り口のテストであっても、結構バランスの取れた(丸みのある)性格と出ることに気づいた。
たまには自分を褒めようということで書くことにした。
価値観で見るテストの場合:
人が傷つくことに耐えられず、宗教的と言っていいほどに、平和と調和を好む。
人の為という意識が強いが、自己を犠牲にはしない。
組織の一員であることに喜びを感じ、人の和を特に大切にし、常に相手の気持ちを察しようとし、責任感が強く、役割に忠実。群れたがるというほどではなく、一人で過ごすのも好き。
知的好奇心が強く、真実を探求したい一方、美に対する感性が鋭く、自分の美的感覚に自信を持つ。
そんな知的好奇心からか、色々な性格診断をしてみるのだが、今日見つけたのは、「アルペケソ性格診断」なるものだ。何でも、「○○ペケソ」という16種類の動物に分類するようで、それぞれの類型は、「部長ペケソ」「おひとりペケソ」「マイ理想派ペケソ」「パンクペケソ」「ラスポスペケソ」などのユニークな名前がついている。
http://www.arupekeso.com/
私は「仏のペケソ」だそうだ。以下引用を含む。
協調を求め平和に過ごし、自分の考えを穏やかに控えめに伝えるその姿勢、
そして、優しく思いやりがあり寛容で一歩引いた佇まい、まるで仏のようです。
女性には有利です。女性らしい一歩引いた性質は好まれます。
ひっそりとグループの動向を把握していて、人間関係の相関図や相手の心中を
掴み人の秘密を知っていることがあります。ですが、口外せずに胸に留めます。
自分が思っていることなどを表現しない傾向が強いためコミュニケーションが足りません。
愛情を受け入れるのは上手ですが、自分から愛情を表現することは稀でしょう。
面白いと思ったのは、
沢山のアイデアやひらめきを持っていますが、表に出すことはありません。
協調性を重視して出しゃばることも少ないでしょう。
ただ、周囲に社交的で明るい人がいると自分の独創的なアイデアや考え方を
披露したり内側に秘めた部分を開放します。
という部分であり、「隠れ双極性」の私にぴったりだと思った。
最後に、定番とも言える「エゴグラム」の結果についても書いておこう。
「厳しく倫理を守ろうとする部分」
「合理性、計算能力」
「のびのび明るい部分」
の3つが中程度。
「優しく思いやりがある」
「人の顔色をうかがいすぎ」
の2点が特徴(高得点)となった。
人の顔色は、ほどほどにうかがう程度になれば、バランスはバッチリになると思う。
やはり自分を卑下する傾向が強すぎるのだと思ったが、そのことに気づいた今は、自信への一歩を踏み出しているであろう。
私の性格というのは、もし初めからこういう性格の人がいたら、もしかするとその人は、自分のことを、「平々凡々のつまらない性格」と思うかもしれないが、私の場合は、努力してこれを身に着けたのだから、褒めても良さそうだと思う。
たまには自分を褒めようということで書くことにした。
価値観で見るテストの場合:
人が傷つくことに耐えられず、宗教的と言っていいほどに、平和と調和を好む。
人の為という意識が強いが、自己を犠牲にはしない。
組織の一員であることに喜びを感じ、人の和を特に大切にし、常に相手の気持ちを察しようとし、責任感が強く、役割に忠実。群れたがるというほどではなく、一人で過ごすのも好き。
知的好奇心が強く、真実を探求したい一方、美に対する感性が鋭く、自分の美的感覚に自信を持つ。
そんな知的好奇心からか、色々な性格診断をしてみるのだが、今日見つけたのは、「アルペケソ性格診断」なるものだ。何でも、「○○ペケソ」という16種類の動物に分類するようで、それぞれの類型は、「部長ペケソ」「おひとりペケソ」「マイ理想派ペケソ」「パンクペケソ」「ラスポスペケソ」などのユニークな名前がついている。
http://www.arupekeso.com/
私は「仏のペケソ」だそうだ。以下引用を含む。
協調を求め平和に過ごし、自分の考えを穏やかに控えめに伝えるその姿勢、
そして、優しく思いやりがあり寛容で一歩引いた佇まい、まるで仏のようです。
女性には有利です。女性らしい一歩引いた性質は好まれます。
ひっそりとグループの動向を把握していて、人間関係の相関図や相手の心中を
掴み人の秘密を知っていることがあります。ですが、口外せずに胸に留めます。
自分が思っていることなどを表現しない傾向が強いためコミュニケーションが足りません。
愛情を受け入れるのは上手ですが、自分から愛情を表現することは稀でしょう。
面白いと思ったのは、
沢山のアイデアやひらめきを持っていますが、表に出すことはありません。
協調性を重視して出しゃばることも少ないでしょう。
ただ、周囲に社交的で明るい人がいると自分の独創的なアイデアや考え方を
披露したり内側に秘めた部分を開放します。
という部分であり、「隠れ双極性」の私にぴったりだと思った。
最後に、定番とも言える「エゴグラム」の結果についても書いておこう。
「厳しく倫理を守ろうとする部分」
「合理性、計算能力」
「のびのび明るい部分」
の3つが中程度。
「優しく思いやりがある」
「人の顔色をうかがいすぎ」
の2点が特徴(高得点)となった。
人の顔色は、ほどほどにうかがう程度になれば、バランスはバッチリになると思う。
やはり自分を卑下する傾向が強すぎるのだと思ったが、そのことに気づいた今は、自信への一歩を踏み出しているであろう。
私の性格というのは、もし初めからこういう性格の人がいたら、もしかするとその人は、自分のことを、「平々凡々のつまらない性格」と思うかもしれないが、私の場合は、努力してこれを身に着けたのだから、褒めても良さそうだと思う。
| ホーム |