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病気の鬱というのは、自然が強制しているというか、神様が意地悪しているというか、とにかく抗えない物なので、おとなしく従って寝ているなどするのが最善だ。というか脳が動かないのでどんなこともやりようがない。激鬱ほどでなくても中程度の鬱でもそうだ。
又、疲労のほとんどは人間にとって大敵で、特に私たちのような病気をもつ者には致命的なので、とにかく、少しでも疲れたら休むのが最善だ。
それらの前提を踏まえて言うのだが、私はどうも、病気の鬱ほどでなくて、ちょっと気持ちが引き立たないとそれだけで、やるべきことをやらずに過ごしてしまうことが多いと気づいた。病気ではなく一般人レベルの萎えの話だ。そんな時、努力や工夫をして気持ちを引き立たせていくのを怠ってきたと気づいた。それは私の性格の弱さであり、克服が必要だと気づいた。音楽をかけるなど何らかの工夫をする、強さを持とう。
あくまでも私の場合は、の話であり、皆さんが「自分は怠けている」と思ってしまう場合は大抵は怠けではなく、真面目すぎるゆえの自責であることを言い添えておく。
ヤル気がイマイチの日に関して、私にとってはもう1つ重要な点がある。それは、最初は億劫でも何らかの動きをしているうちに乗ってきて動くのが苦でなくなる場合はいいのだが、動いていてもどうも気持ちが引き立ってこないし疲れも感じるという場合、やはりゆっくり休憩するのが大切だ。
この場合、病的な軽鬱であると考え、対策をとるよう自分に言い聞かせ始めた。具体的には、鬱時投入用のアモキサンをすぐ飲む。そうしないと、翌日以降どんどん落ちていってアモキサンでの治療が追い付かなくなるのだ。1日の遅れが重大になる。
だから私は、ちょっとでもおかしいなとか、ちょっと疲れが大きいなと感じたら、すぐにアモキサンを投入するよう気をつけることにした。
又、アモキサンを飲んだら、アカシジア予防に抑肝散も飲むことにする。(アカシジアは普通抗精神病薬で起こるので抗うつ剤で起こるのは意外だと思われるかもしれないが、アモキサンで起こることがあるのだ。)
初めは61キロ、BMIは26.5と既に肥満である。日本女性の平均身長に換算すると66キロに相当。
鬱が明けた時には、実体重が66キロ、BMIは28.5。換算後体重は71キロ、大台突破である(T-T)
鬱とは恐ろしい物だ。
鬱が明けた時、あまりに体重が増えていたので、外に出てもちゃんと歩けず、足が痛むようになっていた。
それからは、6-9月と違って、それほど鬱にどっぷり嵌まってしまうこともなく、それ以上体重が増えることはなかった。
が、しかーし、減ることもなく、年を越してしまった。
去年の脂肪は去年の内に落としておけば良かったと、後悔。
でも、諦めないぞ。
今年1年で(次の冬までに)、少なくとも5キロ落として復旧しよう。
9/11(金)にやっと晴れたので、ここ1週間ほど調子が良いです。普通にフラット(ニュートラル)です。
ところで、昨年(2014)5月に転院して以来の病状を2つ前のエントリに書きましたが、もう少し分かりやすくザックリまとめます。
2014.5/22の転院から、2015.6/16まで、1年近く、そこそこ調子良かったです。
(ただ、春は不安定になりやすいので、一時的に落ちてた頃もありました。)
2015.6/17から9/10までは、あまり調子が良くありませんでした。
理由は、
1.季節的要因---晴れが少ないことによる日照不足
・今年の梅雨は、珍しいことに全く晴れた日がなかったので、
梅雨入り数日後から梅雨明けまでずっと鬱だった。
・梅雨が明けていわゆる夏本番の時期は暑かったものの、時期が短く、
8/17から秋雨の季節に入り、9/10まで全く晴れた日がなかった
(異常気象ですよね~)
2.上述の、春に少し落ちた時からラミクタールを始めたが、
薬疹が怖いため増量をかなり慎重にゆっくりにした(←私の希望で)ので、
まだ効いてくるに至らなかった。
ということは、これからはお天気もマトモになり、ラミクタールも効いてくれば、好調で過ごせるだろうと思います。
ラミクタールは9/15から100mgと、ようやく普通量の下限に達しました(もっと増量することもできますが、しばらくはこれで行くと思います。)
今ぐらいから、1月いっぱいぐらいまでは、晴れた日が続くことが通例なので、調子良く過ごせるのではないかと思います。
また雨や曇りの日が続くようなことがあれば、その時は、ラミクタールの進化が試される時かなと思います。
26. 5/23~7/7 好調 47日間の内の0日(00%)梅雨は雨も降ったが照る日が多かった。
7/7~8/2 ソコソコ良い 26日間の内の7日(27%)
8/3~8/28 まあまあ 26日間の内の9日(35%)1~2日軽躁あり
---デパケン増量---
8/29~9/9 悪い 12日間の内の9日(75%)←苦手シーズンの為
9/10~11/23 まあまあ 75日間の内の17日(35%)
11/24~
27. ~3/6 好調 103日間の内の20日(19%)
3/7~3/14 まあまあ 15日間の内の5日(33%)←苦手シーズンにしては、まあまあ。
3/15~6/16 大体良い 94日間の内の20日(21%)アモキサン3/15-4/10 、5/19-6/6服用の為良い
6/17~7/6 悪い 30日間の内の16日(53%)←梅雨で30日の内に陽射しがたった5日
7/7~7/31 気分判定しづらい(体調不良などで)
8/1~8/14 ソコソコ良い 15日間の内の4日(27%)
8/14~ ちっとも陽射しがなくて。。。(50%位?)アモキサン飲んでてもこれだ…オワタ
同じ病気なのに、みんな何故動けるんだろう。
私と同じ病気なのに、他の人はなぜ ↓ のようなことができるんだろう。
・なぜ掃除ができるんだろう。
・なぜ料理ができるんだろう。
・なぜ動物を飼えるんだろう。
・なぜ植物を育てられるんだろう。
・なぜ漬物を漬けられるんだろう。
・なぜウォーキングができるんだろう。
・なぜスポーツジムに行けるんだろう。
・なぜプールに行けるんだろう。
・なぜ友人との仲が完全に切れてしまわないんだろう。
・なぜ主婦をやりながら働けるんだろう、病気持ちなのに。
・逆になぜ、専業主婦なのに、だんなさんが、19時頃までに帰って来て夕食を作ってくれるんだろう。
◆双極性障害 発病の前段階~発病の時期◆
29歳 ★ 第1子出産後は鬱になりイライラもひどかったです。
子供は自閉傾向で手がかかる子でした。私は自分に自信をなくしていき、
細かい事が気になるようになり、それでも子供の療育を一生懸命頑張っていました。
34歳 ★ 第2子産後ハイになり、これが双極性障害の発病(軽躁)である可能性があります。
35歳 ★ 思考奔走、思考散漫、記憶が飛ぶなどの症状が出て、生活がスムーズに進まなくなる。
軽躁ないし躁鬱混合の可能性あり。
36歳 ★ ほんの1か月ぐらいの内に急激に鬱の底まで落ちた。
◆双極性障害と診断されるまでの経緯◆
36歳 5月 鬱でメンクリ定期受診・抗鬱剤服用開始。病名は何も言われない。
寝たきりになる。
6月 薬にアモキサン25mgが加わり、翌日には動けるようになる。
(少量のアモキサンに強い反応を示したのは、薬に敏感な体質だからと思われる)
少しずつ良くなっていく。
7月 歯痛の鎮痛剤のテグレトールを飲んで中止する、
噛み合わせに邪魔になっていた歯を抜く、
カイロプラクティック(オステオパシー)で劇的な効き目
などにより、鬱が治ってしまい、
アモキサンを飲むとテンションが上がりすぎるようになる(薬剤性躁転?)
↓
アモキサン減量を願い出るも、聞き入れられず、
9月 躁の反動でドーンと鬱になり、数日周期で激しい鬱になったり治ったり
するようになる(ラピッドサイクラー化)
以降 激しい浪費をするようになった時期があったが、相談してもスルーされた。
その後(2010.3月頃迄)
依然として抗鬱剤での治療が続く。
ルボックスとデジレルはmax時150mg、アモキサンはmax時125mg、
これら2~3種類の抗鬱剤が同時に処方された。てんこ盛り。
病名は相変わらず不明。
激しい鬱を何度も繰り返し、地獄の3年間となっていた。
2010.
39歳 4月 ルボックスとアモキサンが何故か断薬され、デジレルだけになる。
5月 新規にデパケンR200mgが追加となった。
それ以来、激鬱がなくなり、気分の波の上下幅は少し小さくなったので、
デパケンは合っているようだった。
病名は何も言われない。(ちなみに自立支援の病名は「気分障害」。)
私は、ネットでこの薬を調べた結果、
「私は主治医から、双極性障害だと思われているのだろうか?」と思った。
自分では双極とは思わなかったが。
(鬱だけしかなく、軽躁は無いと思っていたから。
即ち、軽躁の病識が無かった。)
以下工事中
41歳 鬱のさなか、突然、自分が双極だと気づく(すなわち、軽躁の時があったとの病識が突如として湧く)
43歳 ピルを飲み始める。その後亜鉛とDHAのサプリを飲み始めた頃、初めて、フラットな状態も現れた。それまでは、98%が鬱、2%は軽躁で、正常な日はなかった。
44歳 軽躁の時に衝動的に、勝手にセカンドオピニオンを求めに行き、双極Ⅱ型と言われる。
45歳
子供の進学の為の費用が足りないが、私は就労不能なので、障害者年金を申請する予定だ。
(どのように就労不能かは、説明すると長くなるので省くが、1年数カ月前に、「永久に就労不能」という結論に、自分の中で達した。)
私は10代の時から、こだわりを持って「将来は専業主婦になりたい」と希望してきた。
しかし、私が願ったのは就労可能な専業主婦だ。家事育児に専念するつもりながらも、家計がピンチになって、そうも言ってられなくなった折には、やはり働く必要に応じようと考えていた。
実際、結婚して1年後から、最初の子を妊娠するまでの間は、ファストフード店でアルバイトしていた。この時は、別に家計がピンチというわけではなかったが、働けるうちに働いて将来に備えて貯金しておこうと思ったからだ。
その後、いわゆる子育て期には、専業主婦であることが自然だと思えたので、何も考えず家事育児に専念していれば済んだ。
しかしやがて、子供が大きくなってくると、働きに出る人が増え、焦りを感じ、その後実際に学費の面でピンチが迫ってきた。
しかし今の病状では、まだ家事さえきちんとこなせるようになっておらず、ましてや仕事など無理に決まっている。
そんな私であったが、以上は序論で、言いたいのは私のアイデンティティの変化についてだ。
10代の頃から専業主婦を希望していただけあって、結婚してから数年(あるいはもっと)は、私のアイデンティティは、家庭内で色々工夫して、安らげる室内や家庭を作り出すことだった。
しかし最近では何故か飽きが来てしまった。理由の1つは、成長してきた子供達が、私に期待するものが、安らぎの提供だけではなく、他の面のウェイトが大きくなってきたからだろう。他の面とは、尊敬できる、有能な面がある、ということである。
しかしこの病状では、基本的に、物事を有能にこなすことはできない。
そんな私の、新しいアイデンティティになる可能性のあることは、このようにブログに文章を発表するなど、頭や言葉を使う活動だ。
漫画『綿の国星』の中に、「お母さん」が、「そうだ、小説でも発表してみようかしら」と思い立ち、心ここにあらずで、家事がおろそかになりそうになるシーンがある。チビ猫が、「また 話が ネギ(すれ違い)に なっちゃうかなあ」と思う、あの部分だ。
この部分、10代の時に読んだ時には、何も引っかかるものがなかった。
ところが、主婦初期には、「お母さん」に反感を覚えた。私が、やりがいのある仕事として取り組んでいる普段の家事、大切な日常生活に、この人は、新鮮味を感じなくなり、もっと大切な自己実現があるかもしれないなどと心迷うなど、愚かだと思った。
しかし、考えてみれば、この人は、末子(1人っ子かも)が既に18歳、チビ猫の世話も決して人間の幼子を育てるような精神的重圧に満ちたものではないはずだから、あのようなことを考えても、決して主婦として母として無責任ではないと、今は思える。
私自身にしても同じだ。
ただ、後ろめたい点はもちろんある。病気で、家事も満足にはできないのに、その他の活動をして、いっそう家事がおろそかになってしまうのはまずい。
そして思うのは、収入を得るための活動であれば、家事がいっそうおろそかになるとしても、まだ分かるのだが、たかが、自己実現というカッコいい名前をつけただけの単なる趣味に時間を費やすのはいかがなものかと。
しかし、私のアイデンティティが揺らいでしまうと、病状の改善を妨げることもまた事実だ。
これを解決するウルトラCが、障害者年金ではないかと閃いた。
これを貰うことで、家計を助けることができ、「専業主婦ではなく就労して家計を助けなければ、家事の手抜きは許されない」というプレッシャーから解放される。
家事の手抜きが、許されないわけではなくなれば、こうして文章を書いて自己実現し、それをアイデンティティとし、子供達にも尊敬されるような自分でいられる。
問題解決だ。
願わくば是非、申請が通って欲しい。
子供達の勉学への芽を摘まず、進学の夢がかなって欲しい。
あ、家事の手抜きをするといっても、今よりもひどくはしないです。病状が良くなっていく分、家事をもっとちゃんとするというだけでなく、ブログ等の執筆にも多少は充てるというだけで。
というわけで、お洗濯、お洗濯っと。
1/8の診察で、明るく前向きな気持ちになれた。 日常生活に関して希望が持てる方向に。
今まで、うまくいかないことが多くても、これから、うまくいって、成功体験を積み重ねれば良いのではないかと言われたので。
そもそも、はっきりと目立った波があって、その対策として薬の調整をするような状況ならば、今日のような話はできないわけで。まずはその前進が嬉しい。
主治医の言う、成功体験。今まであまり感じられずに来たから、自分はダメな人間と思いがちだった。 成功体験が少ない理由は、達成感が希薄だからだ。
そのことについては、次回詳しく述べようと思う。
今回の診察で私が話したのは、メイクをするのが面倒な私が、たまにメイクをしてキチンとした服装で、それなりの場に行くと、普段とのギャップで疲れるということ。
それに、今年は喪中で鏡餅を飾らなかったので気づいたが、例年は、鏡餅を飾ったはいいが、下げる時に、普段の生活(ハレとケの、ケ)に戻ってしまうのが悲しい。
私は主治医に言った。双極の生活リズム・対人関係療法の本には、普段とあまりに違うことがありすぎてヒャッハーや興奮やストレスが大きくなるといけないと書いてありますが、私は、よそゆきの格好をしたり、鏡餅を飾っただけで調子が狂うのはどういうことなのでしょうか?と。
主治医の解答(原因編):この病気になって、何度も、テンションの高い所から鬱に落ちる嫌な経験を積んだので、ハレからケに戻るだけでも、体に染みついた嫌な記憶が無意識に思い出されるのだろうとのこと。
言われてみれば、発病前であれば、何度も誰かの結婚式に出席したけれども、華やいだ場から日常に戻る時、何も困らなかった。
主治医の解答(対策編):確かに、あまりに強いヒャッハーを招く出来事やストレスの大きすぎる出来事は避けた方がいい。しかし、少々緊張する出来事や、良い身なりでお出かけするような場や、人との楽しい会合などを、避ける必要はなく、むしろ、ハレとケのギャップに少しは慣れて行った方がいい、とのこと。
それを受けて私は言った。「昔の人は無礼講の祭というハレから、どうやってまた普段の辛い農作業などのケに戻ることができたんでしょうか」と。
主治医は、それは平気だったのではなく、きっと辛かった筈、現代人も毎週月曜日は辛いではないかと。つまり健常であってもそういう辛さはあるし、落ち込む日もあるもんだと。 気分の上下をなくして完全にフラットにすることが目標ではなく、調子が多少良い日悪い日があっても、それを受け入れていく方向で考えると良いのだと。私はすごく納得した。そしてこのアドバイスがすごくナイスタイミングであることに驚いた。
というのは、ここ1か月(又はもっと)というもの、 (フラットな日が別に増えもせず・調子の悪い日も相変わらずあるとはいえ、)病的な度合いが明らかに下がっているのだ。
以前は自分の意志の力の及ばぬものの力に支配されて調子の波が起きていた。近年では多少フラットな日をはさみつつも、月に1度か2度、まとまって調子の悪い日々が訪れる、すなわち、ラピッドな鬱の波が起きていた。 自分の気持ちと関係なく起きる波が双極性障害の病的さのなポイントなのだ。
それと比べてここ1か月位は、ストレスがあって調子が崩れるという心因性の傾向が見られ、病的度というか、双極性障害という病気らしさが薄れている感じがしていたのだ。心因がなくても落ちる日もあったが、そういう時は回復が早かった。
つまり、気持ちと関係なく波がおのずから明確に起きてしまうようでは、薬の調整によって波を緩和する必要があるのに対し、落ち込む日や辛い日があってもそれほど波がハッキリせず、ストレスなどの原因が分かっている段階になると、多少の調子の良し悪しは、自然な自分の一部として受け止めようねという主治医のアドバイスが生きてくるのである。 そのような段階に来たからこそ、そういうアドバイスをしてくれたのだろう。主治医、慧眼である。
この日の診察で、「苦手で気が重い作業については、完璧を目指さず妥協する」ということや、「一連の作業をスモールステップに分ける」などのアドバイスをもらった。どちらも前々から知っていたありきたりのアドバイスではあるが、次の言葉があったので私の心に響いた
------そのような方法を用いて、できなかったことが、少しずつできるようになっていけば、成功体験となり、自信がつき、物事がうまくいきやすくなるだろう、と。
成功体験。それだ!
私に足りなかったのはそれだ!
じゃあ、成功体験さえ積めば、もっと毎日は良くなる!
そのように希望を抱くことができ、嬉しい気持ちになった。
その結果、薬の変更はわずかだった割には、かなり好転しました。それは、主治医を信頼できるかどうかという精神的要素も大きいからだと思います。
前の主治医は、私のことを、うつ病でも双極でもないと言っていて、それは良いとして、困るのは、私が予後について知りたそうにすると、必ず言葉を濁していました。なので、私はいつもモヤモヤしていましたが、有耶無耶のまま過ごしていました。
しかし今年の4月に、もっとちゃんと聞こうと意を決して、予後はどうなんでしょうと訊いたら、
「あなたは病気でも何でもないので、今後治るということもありません」
と言われました。それまで主治医の言動の端々にそのような考え方は薄々感じていましたが、これほどまでとは。ショックでした。その日から寝込みました。
そこまでハッキリ言われてやっと、筋の通らない医師から離れる決心ができました。
前のクリニックに通っていた間は、毎回の診察にモヤモヤ感がつきまとい、それがストレスになっていたと考えられるので、治療にプラスになるお薬を飲んでいても、診察のストレスというマイナスとで、差し引きゼロになってしまっていたと思います。
効くはずの薬も効かなくなるという状況です。治るものも治らなくなります。
転院して本当によかったです。
主治医に疑問を持っている方は、疑問をきちんとぶつけてみて、納得できないようなら転院も視野に入れた方が良いと思います。
A.双極性障害(による鬱) B.虚弱体質 C.偽強迫性障害
Cは耳慣れない言葉なのも当然。私の造語である。特定の事に細かく拘り、一見強迫のように見えるが自分から進んで行っている事なので強迫ではない。具体的には着る服の機能性への拘りだ。これに割かれる時間は結構なもので、日常生活をやや圧迫している。
発症時期は、Bが16歳、Cが29歳、Aが30代と、バラバラであっても、どれが支障が最も大きいかの特定にはつながらない。なぜなら、支障をもたらす物(以下「障害」と略記)が1つだった16~28歳は子供がいなかった時期、障害が2つだった29~33歳は子供が1人いて、障害が3つ出揃う34歳~は2人の子供を抱えているというように、障害の数が変わるのと同時に、子供の人数(つまり私の生活条件)も変化しまっているので、どの障害が最も重いのか、分からないのだ。
(注:Cの発症が29歳というのは、話をシンプルにする説明方法であって、実際には16歳から軽度ながら発症しており、29歳から本格的になった。
又、16歳以降は全般性不安障害と呼んでも良いような傾向もある。)
でも幸いなことに、転院してデパケンが微増してからは、「偽強迫性障害」は軽くなってきているように思う。
29歳の時、命の危険に迫られて以来、自己不全感が大きくなって発生してしまった、細かいことへの拘り。それがこの頃は、袖の太さが1センチぐらい太すぎ、細すぎでも、気にならなくなりつつあるように思う。
デパケン、グッジョブ。
つまり、9年間も飲んだ抗鬱剤をやめたということです。
正確に言えば、転院前からやめていたことは、2つ前の記事に書いた記憶があります。
経過は順調で、ノーマル気分の時が多いです。
5/20は、私が双極性障害であると正式に認められた記念すべき日となった。
今迄は、鬱で通院5年目位に自分で双極だと気づいただけであり、主治医は否定していた。躁の時のことを診察で話しても信じてもらえなかった。
セカンドオピニオンで双極Ⅱ型と言われたので双極の事実は確かなものだったが。
前主治医の見立てでは、私は発達障害であり、鬱の原因は発達障害から来る生きづらさ・ストレスだとしていたが、幼少時に異常がない為、発達障害説は怪しく、自分でも生きづらいと思ったことはないのに、生きづらい種の人間と決めつけられていたことがとても嫌なのを我慢して9年通っていた。
彼女が言うには、発達障害は治らないので、慢性的に、鬱の原因となるストレスが続くわけだから、これからも鬱は治らないとのこと。
今迄はそのように言われてもピンと来ないばかりだったが、4/7に、とにかく治らないとハッキリ言われてやっとショックを受け、転院を決意した。
前主治医の処方は、初めの3年は闇雲に多量の抗鬱剤を盛って躁転を招くひどい物だった。
後半6年は、何故かデパケンでの治療となったが、抗鬱剤も相変わらず多いので、バランスとしては気分安定薬の効き目は不十分(診断が双極でないからこうなる)で波がかなり残っていることに、4月になって気づいた。
なので私は、どこかの精神科で双極との診断を早く受けて充分な気分安定薬をもらわなければ、私はこのままボロボロになって壊れてしまうと思った。
ちなみに元々通っていたのは最寄り(チャリで10分)のメンクリで、通い始めた時はそこしか無かった。別のメンクリができてからも、予約制でないのが気楽で、通い続けていた。
転院先は7年程前に隣駅前に開院した、精神保健指定医のメンクリで、家からチャリで15分、完全予約制。
転院の初診は大切だから、資料を作って行った。それが、このブログの1つ前の記事だ。それを受付で渡しておいた。それはとても効果的だった。というのは…
診察室に呼ばれ、「よろしくお願いします」と挨拶して座るなり、
「鬱とかいうけど、こりゃあ、双極性障害でしょ。いわゆる躁鬱ね。」と言われたからだ。
苦節9年、やっと、双極性障害との診断が正式に下された瞬間だった。
Ⅰ型の可能性すらあると言われたのでビックリ。
又、新主治医は、発達障害だから一生治らない説を否定。軽躁や躁の様子を、元主治医が、落ち着きのなさから発達障害と見誤った(又、鬱の時の独特のぼんやりを発達障害の不注意と誤った)のだろうとのこと。
発達障害ではないだろうとのこと。
私が、前主治医から「治らない」と言われてショックだったことを、新主治医に話すと、
「双極性障害だからといって、薬を飲んだ状態なら寛解するというのではなく、波は残る」と釘をさされた。波の上下幅が小さく穏やかになることを目指して治療してくれるそうだ。
薬は、気分安定薬を中心に据えることはもちろんのこと、抗鬱剤は、例えマイルドな物でも、病気の治療の為には用いず、もし鬱でどうしようもなくなった時の対症療法として用いる可能性がある程度という方針を説明してくれた。
抗鬱剤は散々イヤな目に遭ってこりごりの私にはピッタリだ。
というのは、最初の3年の抗鬱剤てんこ盛りは論外として、この6年間ずっと飲んでいたデジレルは、抗鬱効果はマイルドな薬という評判もあり、自分としても、飲んでいて違和感がなかった。それが、とんでもなく合わない薬だと気づいたのは先月(4月)だった。
そのちょっと前、2月に鬱が悪くなったので3錠だったのが5錠に増やされたのだが、2カ月近く経って3月末になっても一向に好転しないので効果に少し疑念を抱いてはいた。
ところで薬の飲み忘れは滅多にしないのだが、2月に眠前のデジレル3錠を飲み忘れ、慌てて翌朝飲んだが、激しく眠くなって爆睡し、その日1日がつぶれてしまうという出来事があった。
この眠前3錠のデジレル、4月(転院決意後)に、また飲み忘れてしまったのだが、寝てしまうのを恐れて今度は飲まなかった。自己判断OKの約束があったので、飲み忘れのままそのまま日中飲むのをやめ、眠前の2錠のみに一気に減量した。
数日後のある日、鬱のひどさに、何か頓服はないかと薬箱をあさり、余っているデジレルが目についたので、1錠飲んでみた。そしたら、気分の悪いのなんのって。体中が震えるような強張るような、居たたまれないような、これ以上生きていたくないような。
「うわ…、デジレルって、私に合ってなかったんだ」とびっくりした。
それで、残りも漸減し、ついにデジレルをやめた。
一応言っておくが、医師に処方された薬を自己判断で無断でやめるのは禁忌である。
しかし私の場合は、言わば主治医不在の状態だったから仕方ない。又、以前に主治医の指導の元、抗鬱剤を徐々に断薬した経験があり、予想される断薬症状(クラクラする)は分かっていたので落ち着いて断薬できた。
こうしてデパケン1本にしぼって(ただし、他に抗不安薬・眠剤・頓服は使用)転院した。
この辺のことは新主治医に説明してちっとも変に思われなかった。
新主治医はとても話しやすく打ちとけやすい先生で、又、初診枠は40分とってあるので、薬のことなどとても丁寧に説明してくれた。「薬の選択肢は、これとこれがあって、」と説明しながら私の反応を見て下さり、私の納得する投薬に決めて下さった。私の納得というのは、患者の言いなりという意味ではない。もしかすると逆に、初めから投薬内容を決めた上で、私の納得を待っただけだと思う。(投薬内容は後日upしますが、基本デパケン。)
ちなみに再診も10分という充分な枠になっている。待合室が空いている様子からは、実際に10分に1人しか予約を入れていないと考えられる。
今後の人生に大きな希望を抱けた日となった。