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2月半ば位まで寝たきりだったと思う。以前はよく座ってパソコンをしていたが、寝ている姿勢では何もすることがない。文庫本を読むのも無理だ。スマホがあればできたかもしれないが、私は世の中から遅れているので、当時まだスマホを持っていなかった。
何もすることがなく、できるのは考え事ばかりだった。頭の中にたくさんの文章が湧いてきた。
2月頃になって治ると、湧いていた沢山の言葉を、これとは別のブログに記した。パソコンで、ブログ書きに熱中しまくる5か月間が始まった。
問題は、我が家のパソコンは、デスク上に設置してはおらず、リビングのカーペットに座って使うように置かれていたことだ。ノートパソコンだから、こまめに食卓などに持って行って腰かけてブログを更新すれば良いのだが、つい、元の場所ですぐ文章を打ち出すのだった。何時間も書くこともあった。同じ姿勢を続けていると疲れるので、横座り、あぐら、正座と、色々な座り方をしていた。
そんな、椅子に腰かけることが少なく床に座ってばかりの生活は、腰を傷める原因になったというよりは、きっかけにすぎなかったかもしれない。
7月末のある日、いつも通りに床に座ろうとすると、「ぐぎっ」と痛みが走った。病院でレントゲンを撮ってみると、腰椎のうち、下から2つの椎間板は、加齢により、もうすり減ってしまっているので、骨と骨が直接当たるので痛むのだと判明した。治療法は、軽い体操と、病院での牽引(体を機械で引っ張って骨と骨の間を伸ばす)だった。
横になっていれば楽なのだが、起きている限りは重力がかかるので痛んだ。だから、またパソコンのできない日々に戻ってしまった。起きている時、じっとしていると辛く、動いていると楽なこともあり、初めの内はせっせと牽引に通った。
しかし私は、スマホという悪魔の道具を手に入れることにしてしまった。9月に購入した。それからは、一日中、寝たままスマホ(主にツイッター)にどっぷりハマり、起き上がることは少なくなってしまった。
こうして2017年は過ぎていった。12か月の内7か月は、ほぼ横になっている毎日だった。
以前は寝たきりというと鬱のせいでなっていたが、2017年は、肉体的な理由で、起き上がれずに過ごした。整形外科的な理由で。
この冬は、ものすごく鬱が重かったが、現在(2018年2月)、読書ができそうな程度には回復しており、早く腰が良くなって座れるようになって読書したいなあ。
その年、その後更に1~2キロ増えたようだ。
2016年の11月7日のツイートに、
「4か月もダイエットしてるのに、何故1キロも減らないんだろう。67.5キロと68.5キロの間を行ったりきたり。」
とある。
しかしその直後から、何と、別に頑張りもせず、あっさりとダイエットがうまくいっている。
あんなに頑固だった体重が、するする下がってきているのだ。
約2か月で約4キロ減らすことができたもよう。その時は「ダイエットが成功している」という感じだったが、のちには飽きて、ダイエットしているという意識はなくなり、体重の減りも少なくはなったが、知らず知らずの内に漸減。3か月で1.5kg位の減少のようだ。
以前は食事に気をつけていても全然体重が減らなかったのに、今は、お菓子を好きなだけバクバク食べて、平衡もしくは微減なのは驚くべきことだ。
1/12 64.2kg
1/13 64.0
1/17 63.5
1/18 63.9
1/22 63.9
1/28 63.7
2/08 63.9
2/10 63.9
2/14 63.2
2/24 62.5
3/09 62.7
3/11 63.1
3/20 62.7
3/24 63.0
4/10 62.6(当初つまり約67.5kgから、5kg減! ✨✨)
当初は60キロを目標としていたので、あと2~3キロということになるが、上手くいって欲が出てきて、58キロになれればいいなと思っている。あと4~5キロか。よし!
病気の鬱というのは、自然が強制しているというか、神様が意地悪しているというか、とにかく抗えない物なので、おとなしく従って寝ているなどするのが最善だ。というか脳が動かないのでどんなこともやりようがない。激鬱ほどでなくても中程度の鬱でもそうだ。
又、疲労のほとんどは人間にとって大敵で、特に私たちのような病気をもつ者には致命的なので、とにかく、少しでも疲れたら休むのが最善だ。
それらの前提を踏まえて言うのだが、私はどうも、病気の鬱ほどでなくて、ちょっと気持ちが引き立たないとそれだけで、やるべきことをやらずに過ごしてしまうことが多いと気づいた。病気ではなく一般人レベルの萎えの話だ。そんな時、努力や工夫をして気持ちを引き立たせていくのを怠ってきたと気づいた。それは私の性格の弱さであり、克服が必要だと気づいた。音楽をかけるなど何らかの工夫をする、強さを持とう。
あくまでも私の場合は、の話であり、皆さんが「自分は怠けている」と思ってしまう場合は大抵は怠けではなく、真面目すぎるゆえの自責であることを言い添えておく。
ヤル気がイマイチの日に関して、私にとってはもう1つ重要な点がある。それは、最初は億劫でも何らかの動きをしているうちに乗ってきて動くのが苦でなくなる場合はいいのだが、動いていてもどうも気持ちが引き立ってこないし疲れも感じるという場合、やはりゆっくり休憩するのが大切だ。
この場合、病的な軽鬱であると考え、対策をとるよう自分に言い聞かせ始めた。具体的には、鬱時投入用のアモキサンをすぐ飲む。そうしないと、翌日以降どんどん落ちていってアモキサンでの治療が追い付かなくなるのだ。1日の遅れが重大になる。
だから私は、ちょっとでもおかしいなとか、ちょっと疲れが大きいなと感じたら、すぐにアモキサンを投入するよう気をつけることにした。
又、アモキサンを飲んだら、アカシジア予防に抑肝散も飲むことにする。(アカシジアは普通抗精神病薬で起こるので抗うつ剤で起こるのは意外だと思われるかもしれないが、アモキサンで起こることがあるのだ。)
初めは61キロ、BMIは26.5と既に肥満である。日本女性の平均身長に換算すると66キロに相当。
鬱が明けた時には、実体重が66キロ、BMIは28.5。換算後体重は71キロ、大台突破である(T-T)
鬱とは恐ろしい物だ。
鬱が明けた時、あまりに体重が増えていたので、外に出てもちゃんと歩けず、足が痛むようになっていた。
それからは、6-9月と違って、それほど鬱にどっぷり嵌まってしまうこともなく、それ以上体重が増えることはなかった。
が、しかーし、減ることもなく、年を越してしまった。
去年の脂肪は去年の内に落としておけば良かったと、後悔。
でも、諦めないぞ。
今年1年で(次の冬までに)、少なくとも5キロ落として復旧しよう。
9/11(金)にやっと晴れたので、ここ1週間ほど調子が良いです。普通にフラット(ニュートラル)です。
ところで、昨年(2014)5月に転院して以来の病状を2つ前のエントリに書きましたが、もう少し分かりやすくザックリまとめます。
2014.5/22の転院から、2015.6/16まで、1年近く、そこそこ調子良かったです。
(ただ、春は不安定になりやすいので、一時的に落ちてた頃もありました。)
2015.6/17から9/10までは、あまり調子が良くありませんでした。
理由は、
1.季節的要因---晴れが少ないことによる日照不足
・今年の梅雨は、珍しいことに全く晴れた日がなかったので、
梅雨入り数日後から梅雨明けまでずっと鬱だった。
・梅雨が明けていわゆる夏本番の時期は暑かったものの、時期が短く、
8/17から秋雨の季節に入り、9/10まで全く晴れた日がなかった
(異常気象ですよね~)
2.上述の、春に少し落ちた時からラミクタールを始めたが、
薬疹が怖いため増量をかなり慎重にゆっくりにした(←私の希望で)ので、
まだ効いてくるに至らなかった。
ということは、これからはお天気もマトモになり、ラミクタールも効いてくれば、好調で過ごせるだろうと思います。
ラミクタールは9/15から100mgと、ようやく普通量の下限に達しました(もっと増量することもできますが、しばらくはこれで行くと思います。)
今ぐらいから、1月いっぱいぐらいまでは、晴れた日が続くことが通例なので、調子良く過ごせるのではないかと思います。
また雨や曇りの日が続くようなことがあれば、その時は、ラミクタールの進化が試される時かなと思います。
高校生の時に今の道に進もうと思うよりも前の自分を思い出した。
それで、カウンセリングでそのようなことを話したら、カウンセラーからは、
結局私はどうしたかったのかという問いを突きつけられたような気がした。
それこそ、今の道に進んだことがまるで人生を棒に振ったのか、、、
だから私は無理のある生き方をして、それがたたってこのような病気になってしまったのかと、
それ以来数カ月考えてきた。
でも今日、ふと、答えが見えた。
以前にやりたかったことと、
そのあと決めた目標と、
その2つは決して、
相反するすることではなく、融合するものであり、
両立可能、いや当然私にとっては両立してしかるべきものであると気づいたのだ。
言葉では説明するのは難しい。キーワードは「歌」だ。
そして私は、「ドレミの歌」などをくちずさみつつ、今日も家事をするのである。
26. 5/23~7/7 好調 47日間の内の0日(00%)梅雨は雨も降ったが照る日が多かった。
7/7~8/2 ソコソコ良い 26日間の内の7日(27%)
8/3~8/28 まあまあ 26日間の内の9日(35%)1~2日軽躁あり
---デパケン増量---
8/29~9/9 悪い 12日間の内の9日(75%)←苦手シーズンの為
9/10~11/23 まあまあ 75日間の内の17日(35%)
11/24~
27. ~3/6 好調 103日間の内の20日(19%)
3/7~3/14 まあまあ 15日間の内の5日(33%)←苦手シーズンにしては、まあまあ。
3/15~6/16 大体良い 94日間の内の20日(21%)アモキサン3/15-4/10 、5/19-6/6服用の為良い
6/17~7/6 悪い 30日間の内の16日(53%)←梅雨で30日の内に陽射しがたった5日
7/7~7/31 気分判定しづらい(体調不良などで)
8/1~8/14 ソコソコ良い 15日間の内の4日(27%)
8/14~ ちっとも陽射しがなくて。。。(50%位?)アモキサン飲んでてもこれだ…オワタ
同じ病気なのに、みんな何故動けるんだろう。
私と同じ病気なのに、他の人はなぜ ↓ のようなことができるんだろう。
・なぜ掃除ができるんだろう。
・なぜ料理ができるんだろう。
・なぜ動物を飼えるんだろう。
・なぜ植物を育てられるんだろう。
・なぜ漬物を漬けられるんだろう。
・なぜウォーキングができるんだろう。
・なぜスポーツジムに行けるんだろう。
・なぜプールに行けるんだろう。
・なぜ友人との仲が完全に切れてしまわないんだろう。
・なぜ主婦をやりながら働けるんだろう、病気持ちなのに。
・逆になぜ、専業主婦なのに、だんなさんが、19時頃までに帰って来て夕食を作ってくれるんだろう。
ただし、その内容というか本質が何であるかを、私ごときが語るのは避けることとし、良い書籍の紹介に留め、この投稿では単に、用語を整理するだけとしたい。
ちなみに以下の知識が得られた経緯は、身内にそのような者が多いことから、16年ほど前から色々本を読むなどして勉強してきたからだ。
さっそく用語の整理をしよう。
まず、DSM-Ⅳで使われていた【広汎性発達障害(PDD)】という言葉に取って代わって、DSM-5で正式名称に昇格した【自閉症スペクトラム(ASD)】。(ただしICDでは まだVer.が10なのでまだ前者が使われている。)
【自閉症スペクトラム】の意味は、自閉症の人や、それよりも軽度の人(自閉症に近い人から、むしろ普通に近い人まで)を広く総称するもの。
特徴というか定義は、
A.コミュニケーションの異常(相手の立場を想像できない)
↑ 訓練によりある程度補える
B.興味関心の限局 常同的行動パターンの繰り返し
(こだわり)
↑ 成長によって目立たなくなることもあり
その場合、健常者※にもあるオタク的興味関心へと変貌することも多い
の両方を満たすものとされている。
(※健常者という言葉は差別的なので使いたくなかったが便宜上使いました。正しくは定型発達者。)
では、以前の【広汎性発達障害(PDD)】とどう違うか。
これは、細かくいうとPDD-NOS(特定不能の広汎性発達障害)の扱いに関し諸説あるが、それを無視してしまえば、同じと言える。
(ソースはhttp://www.kiyoshi-ohta.com/ronbun/2013/20131109yosikawa.pdf )
ところで、上記でいうAだけの人は、自閉症スペクトラムに似ているが、こだわりだけがない。
このタイプは、DSM-5では、【社会コミュニケーション障害】という。
しかし【自閉症スペクトラム】と【社会コミュニケーション障害】の弁別は困難な場合もある。それは、実際は自閉症スペクトラムであっても、Bの説明の所にあるように、次第にBの特徴が目立たなくなる場合もあるからだ。
尚【】内の言葉には、頭に高機能という言葉がプラスされて用いられることもある。
この場合の高機能とは、知的障害がないという意味であり、IQが70以上であることを表している。
「高機能自閉症」
「高機能自閉症スペクトラム」
「高機能広汎性発達障害」 などである。
(「高機能自閉症スペクトラム」という言葉は用いないとする説もあるが、私はその説には論理的矛盾があると思うので、用いるということでOKだと思う。上記サイトでも用いるのを支持する内容だった。)
つまり、【高機能自閉症スペクトラム】と【高機能広汎性発達障害】は同じだと思っていい。
上に書いたAとBを両方満たして知的障害はない(IQが70以上)という意味だ。
「高機能自閉症」は、上記の中に含まれ、自閉度が強い場合を指している。
さて、私が読者として想定している方々の興味・関心は、この、
【高機能自閉症スペクトラム】=【高機能広汎性発達障害】
にあると思う。(知的障害には関心がないだろうと想定しているし、はっきりとした自閉症ではなく、アスペルガーのような軽度自閉傾向に関心をお持ちだと想定している。)
それに、知的障害ではない(IQ70以上)というよりももっと積極的に、知能が平均以上(おおむねIQ85~115の平均的知能だったり、115以上の頭の良い人だったり)のタイブに興味・関心をお持ちだと思う。
しかし、このタイプ(自閉傾向が低く一見普通に近いタイプ)を特定する名称は、残念ながら無いのである。
「え、それはアスペルガー症候群(又はアスペルガー障害)という立派な名前がついているんじゃないの?」と思う方もおありだろう。
それで正解だと言う人もいるだろうし、そうでないと言う人もいるし、そもそもアスペルガー(以下AS)という用語が無意味という考え方まで成り立ってしまう。
そうでないとはどういうことかというと、
言語性IQが高く、動作性IQの方が低い場合がASであり、逆の場合はASではないとする説だ。私もこの考え方を支持する。
従って、ASでは協調運動の異常(不得意)や不器用などの特徴が出ると私は考えている。
又、自閉症スペクトラムでは時間と共に過ぎ去る聴覚認知に苦手があり、視覚で補うのだが、ASではその特徴が弱いように思う。幼児期には、聴覚に若干の苦手や混乱があり、それが言葉の習得にもやや難をきたすものの、成長すると正常レベル内での苦手にまで追いついたり、それ以上に伸びたりするように思う。
それが言語性IQが優れるということにつながるのだと思う。
それらのせいか、ASの場合は、そうでないタイプと比べると、言葉の遅れが微妙な感じなことが多い。
幼児期の言葉が異常ながらも、発語の多さゆえ、親によっては言葉の遅れに気づかない場合もあるパターン。異常というのは、オウム返しが多かったり、3~4歳ではまだ会話が成り立たなかったりとか。5歳位では全く遅れがなくなってすっかり正常になってるとか。そういう、言葉の遅れの小ささが特徴。
以上のこと全部分かった上でなければ、軽々しくアスペルガーという言葉を使ってほしくないな。
さすがに、アスペルガータイプの人物について初めて報告した(観察して論文にまとめた)ハンス・アスペルガーの論文を読めとか、彼の論文を読んで初めてアスペルガー症候群の概念を打ち立てたローナ・ウィングの論文を読めとかまでは言わないから。(私も読んでないし。)
で、我が家の娘(高校生)、自閉症スペクトラムと診断されています。
最初は広汎性発達障害と診断されていましたが、意味が同じなのはお分かりいただけると思います。
時により、診断が取り消しになったり、またついたりする、ごく軽症。
知能の高いタイプ。それなりに勉強を頑張ったら、偏差値70の高校に入れました。決して私が教育ママで尻を叩いて勉強を重視したのではありません。だって、勉強ができるようになるより、幸せになってほしいと思うから。
生きるのが辛そうだったから、幸せになってほしいと。
常識がない面が多かったけど、適応できるようになるべく常識を身に着けさせてきました。
幼児期の発語が多く、協調運動の苦手が乳児期から15歳頃まで見られた、そう、アスペルガータイプですよ、皆さんの好きな。知能検査の結果も、動作性105位、言語性130位とそれを裏付けていますし。
で、声を大にして言いたいのですが、「アスペルガーは冗談が分からない」「言葉の裏を読めない」とか、あれ、嘘ですから。
特に教育しなくても、娘はそういうの得意ですから。
もちろん、【自閉症スペクトラム】の中には、そういう苦手を持った人の方が圧倒的に多いとは思いますよ。でも、それが苦手な人もいるし、割と普通にできる人もいる。それは、アスペルガータイプかどうかとは、関係ないんです。
そのように、アスペルガーに関する俗説が流布しているのは、ホント迷惑で困ります。
例えば論理性に優れているだけでアスペ呼ばわりとか。
独特な敏感さがあるだけでアスペ呼ばわりとか。
一芸に邁進したり職人気質だったりするだけでアスペ呼ばわりとか。
今書いているこの文章のしつこさ・くどさ・理屈っぽさから、私がすごく凝り性で、かつ、多少は緻密な側面があるのは、読んだだけで伝わると思いますが、凝り性というだけでアスペと思うような人まで出てくる始末で、本当に困りますね。
論理的な人が全員アスペなわけないでしょう?
たとえどんなに論理性に優れていたとしても、例えば小3位の子供の場合で、母親が交通事故にあってケガをしたことが判明して家で母親の帰りを待って21時にやっと病院から帰って来た母親に対する第一声として、「(お帰りなさい、)ケガ大丈夫?」という普通の台詞が出るのであれば、健常(定型発達)であって、自閉症スペクトラムではありません。つまりアスペルガーではありません。
この例は下記の書籍から引用した話で、ちょっとネタバレになっちゃいましたが。
ネタバレついでに明かしてしまうと、自閉症スペクトラムの場合は、この例で帰宅した母親に対して発する言葉は「夕飯どうしよう?」です。
更に細かい話になると、娘は、話している相手の声音から感情を読みとるのが得意。話を聴きつつ顔の表情から感情を読み取るのが苦手。
これ、視覚と聴覚を同時に使うのが苦手なんです。父親譲り。
多くの人は逆に、耳から話を聴きながら目では何か画像などを追いかける(認識する)ことができるのではないかと思います。並行作業がは苦手な人でもある程度は。
私は、視覚と聴覚を同時に使うのが苦手というのが自閉症スペクトラムの特徴ではないかと密かに思っているので、顔の表情から裏を読むのは苦手でも、口調や文脈から裏の意味を読める可能性はあるし、アスペルガーなら言語性に優れているのでその可能性は大きくなるでしょう。
尚、自閉症スペクトラムの人によく見られる感覚過敏、協調運動障害や不器用、数字への偏愛、といったものは、周辺症状であって、診断のヒントにはなっても、決め手にはなりません。これらの特徴があるからといってASDとは決めつけられません。
--------お勧めの良著--------
SB新書『自閉症スペクトラム』(著:本田秀夫)
この本では、自閉症スペクトラムとは何か、その特徴がよく分かるだけでなく、障害としての自閉症スペクトラムと、個性としての自閉症スペクトラムの両方があると書いてあり、目から鱗。副題はズバリ「10人に1人が抱える「生きづらさ」の正体」。つまり、10人に1人は自閉症スペクトラムであり、その多くは、個性(非障害)であり、一方障害に関しても配慮が大切ということです。
自分はASDなのではないか、アスペルガーなのではないかと悩む人にとても役立ちます。
身近にそれっぽい人がいる場合もとても役立ちます。
この障害をもった子供の適切な育て方も書いてあります。
まさに花丸というか、この分野の本を十数冊読んだ私にとってこれが最後でいいかもと思える、バイブル的にしたい凄い本です。
◆双極性障害 発病の前段階~発病の時期◆
29歳 ★ 第1子出産後は鬱になりイライラもひどかったです。
子供は自閉傾向で手がかかる子でした。私は自分に自信をなくしていき、
細かい事が気になるようになり、それでも子供の療育を一生懸命頑張っていました。
34歳 ★ 第2子産後ハイになり、これが双極性障害の発病(軽躁)である可能性があります。
35歳 ★ 思考奔走、思考散漫、記憶が飛ぶなどの症状が出て、生活がスムーズに進まなくなる。
軽躁ないし躁鬱混合の可能性あり。
36歳 ★ ほんの1か月ぐらいの内に急激に鬱の底まで落ちた。
◆双極性障害と診断されるまでの経緯◆
36歳 5月 鬱でメンクリ定期受診・抗鬱剤服用開始。病名は何も言われない。
寝たきりになる。
6月 薬にアモキサン25mgが加わり、翌日には動けるようになる。
(少量のアモキサンに強い反応を示したのは、薬に敏感な体質だからと思われる)
少しずつ良くなっていく。
7月 歯痛の鎮痛剤のテグレトールを飲んで中止する、
噛み合わせに邪魔になっていた歯を抜く、
カイロプラクティック(オステオパシー)で劇的な効き目
などにより、鬱が治ってしまい、
アモキサンを飲むとテンションが上がりすぎるようになる(薬剤性躁転?)
↓
アモキサン減量を願い出るも、聞き入れられず、
9月 躁の反動でドーンと鬱になり、数日周期で激しい鬱になったり治ったり
するようになる(ラピッドサイクラー化)
以降 激しい浪費をするようになった時期があったが、相談してもスルーされた。
その後(2010.3月頃迄)
依然として抗鬱剤での治療が続く。
ルボックスとデジレルはmax時150mg、アモキサンはmax時125mg、
これら2~3種類の抗鬱剤が同時に処方された。てんこ盛り。
病名は相変わらず不明。
激しい鬱を何度も繰り返し、地獄の3年間となっていた。
2010.
39歳 4月 ルボックスとアモキサンが何故か断薬され、デジレルだけになる。
5月 新規にデパケンR200mgが追加となった。
それ以来、激鬱がなくなり、気分の波の上下幅は少し小さくなったので、
デパケンは合っているようだった。
病名は何も言われない。(ちなみに自立支援の病名は「気分障害」。)
私は、ネットでこの薬を調べた結果、
「私は主治医から、双極性障害だと思われているのだろうか?」と思った。
自分では双極とは思わなかったが。
(鬱だけしかなく、軽躁は無いと思っていたから。
即ち、軽躁の病識が無かった。)
以下工事中
41歳 鬱のさなか、突然、自分が双極だと気づく(すなわち、軽躁の時があったとの病識が突如として湧く)
43歳 ピルを飲み始める。その後亜鉛とDHAのサプリを飲み始めた頃、初めて、フラットな状態も現れた。それまでは、98%が鬱、2%は軽躁で、正常な日はなかった。
44歳 軽躁の時に衝動的に、勝手にセカンドオピニオンを求めに行き、双極Ⅱ型と言われる。
45歳
子供の進学の為の費用が足りないが、私は就労不能なので、障害者年金を申請する予定だ。
(どのように就労不能かは、説明すると長くなるので省くが、1年数カ月前に、「永久に就労不能」という結論に、自分の中で達した。)
私は10代の時から、こだわりを持って「将来は専業主婦になりたい」と希望してきた。
しかし、私が願ったのは就労可能な専業主婦だ。家事育児に専念するつもりながらも、家計がピンチになって、そうも言ってられなくなった折には、やはり働く必要に応じようと考えていた。
実際、結婚して1年後から、最初の子を妊娠するまでの間は、ファストフード店でアルバイトしていた。この時は、別に家計がピンチというわけではなかったが、働けるうちに働いて将来に備えて貯金しておこうと思ったからだ。
その後、いわゆる子育て期には、専業主婦であることが自然だと思えたので、何も考えず家事育児に専念していれば済んだ。
しかしやがて、子供が大きくなってくると、働きに出る人が増え、焦りを感じ、その後実際に学費の面でピンチが迫ってきた。
しかし今の病状では、まだ家事さえきちんとこなせるようになっておらず、ましてや仕事など無理に決まっている。
そんな私であったが、以上は序論で、言いたいのは私のアイデンティティの変化についてだ。
10代の頃から専業主婦を希望していただけあって、結婚してから数年(あるいはもっと)は、私のアイデンティティは、家庭内で色々工夫して、安らげる室内や家庭を作り出すことだった。
しかし最近では何故か飽きが来てしまった。理由の1つは、成長してきた子供達が、私に期待するものが、安らぎの提供だけではなく、他の面のウェイトが大きくなってきたからだろう。他の面とは、尊敬できる、有能な面がある、ということである。
しかしこの病状では、基本的に、物事を有能にこなすことはできない。
そんな私の、新しいアイデンティティになる可能性のあることは、このようにブログに文章を発表するなど、頭や言葉を使う活動だ。
漫画『綿の国星』の中に、「お母さん」が、「そうだ、小説でも発表してみようかしら」と思い立ち、心ここにあらずで、家事がおろそかになりそうになるシーンがある。チビ猫が、「また 話が ネギ(すれ違い)に なっちゃうかなあ」と思う、あの部分だ。
この部分、10代の時に読んだ時には、何も引っかかるものがなかった。
ところが、主婦初期には、「お母さん」に反感を覚えた。私が、やりがいのある仕事として取り組んでいる普段の家事、大切な日常生活に、この人は、新鮮味を感じなくなり、もっと大切な自己実現があるかもしれないなどと心迷うなど、愚かだと思った。
しかし、考えてみれば、この人は、末子(1人っ子かも)が既に18歳、チビ猫の世話も決して人間の幼子を育てるような精神的重圧に満ちたものではないはずだから、あのようなことを考えても、決して主婦として母として無責任ではないと、今は思える。
私自身にしても同じだ。
ただ、後ろめたい点はもちろんある。病気で、家事も満足にはできないのに、その他の活動をして、いっそう家事がおろそかになってしまうのはまずい。
そして思うのは、収入を得るための活動であれば、家事がいっそうおろそかになるとしても、まだ分かるのだが、たかが、自己実現というカッコいい名前をつけただけの単なる趣味に時間を費やすのはいかがなものかと。
しかし、私のアイデンティティが揺らいでしまうと、病状の改善を妨げることもまた事実だ。
これを解決するウルトラCが、障害者年金ではないかと閃いた。
これを貰うことで、家計を助けることができ、「専業主婦ではなく就労して家計を助けなければ、家事の手抜きは許されない」というプレッシャーから解放される。
家事の手抜きが、許されないわけではなくなれば、こうして文章を書いて自己実現し、それをアイデンティティとし、子供達にも尊敬されるような自分でいられる。
問題解決だ。
願わくば是非、申請が通って欲しい。
子供達の勉学への芽を摘まず、進学の夢がかなって欲しい。
あ、家事の手抜きをするといっても、今よりもひどくはしないです。病状が良くなっていく分、家事をもっとちゃんとするというだけでなく、ブログ等の執筆にも多少は充てるというだけで。
というわけで、お洗濯、お洗濯っと。
先月からカウンセリングを受けていて、ずいぶん効果が上がっている。
しかし、今のカウンセラーに出会うまで、カウンセリングに効果を感じなかったことも多かった。
それ以前に、まず言っておきたいことは、カウンセリングは心の中に介入されるということなので、リスクを伴うという事だ。土足で踏み込まれて傷を残されることも多い。
薬に副作用があるのと同様、カウンセリングにも副作用がある。一般論としては、このことをまずしっかり押さえておきたい。
まあそんなカウンセラーは論外として、良いカウンセラーなら効果があると、必ずしも言えるのか?
それは多分、他力本願というかカウンセラー任せではお金と気力のムダになるのではないかという気がする。
今回成果が上がっているのは、優れたカウンセラーだからというのは勿論のこと、私の、カウンセリングを受けるに当たっての目的意識のようなものが功を奏していると思う。
漫然とだらだら話すのではなく、「約1年半かけて、これこれのことについて話したい」と、A4半分位にまとめたものを、初回に提出し、それに沿って話している。
それは道を示した地図のようなもので、それがあればこそ、話の脱線も大いに結構だ。
カウンセラーにかかっていれば治るだろう、ではなく、自分が主役で治る、という意識が大切だと思う。
・主婦初期(子供なし)の頃に働いていたファストフードで、また、バイトしている。
・子供が大きくなって手が離れたこともあり、結婚前に働いていた会社にまた雇われている。
・何故か、もう1度大学に入学して、通っている。
・何故か、もう1度高校に入学して、通っている。おばさんなのに。
昨夜の夢は、4つめ、高校というパターンだった。
実際にそういうことがあったとしたら、誰の目から見ても中年であることは明らかで、制服を着ていることは気色悪いことこの上ないだろうが、夢の中では、年齢を秘密にしている。うまく隠しおおせていることが多い。
このような高校の夢の中では、イケメン或いは気が合いそうな男性(もちろん、高校生かせいぜい大学生)との出会いがあり、恋に発展するかもと少しワクワクするのだが、眠りが浅くなるに伴い、夫が待つ家に帰宅し、現実に戻るというパターンが多い。
昨夜の夢は、ほぼこのパターン通りだったが、印象は少し違っていた。
年齢は、初めはまず、バレていなかった。
同級生の男性のことが気になっていた。彼は、何か大切な物を失って(例えば聴力とか←だとしたら普通科高校に通っているのは不思議だが。いや、親がいない、というようなことかもしれない。)いて、そのようなハンディキャップを努力で補っている経験は貴重で、多くの人に知られるべく、道徳の教科書にも掲載されて(以前インタビューを受けたのだ)いるのだ。
彼への私の思いは、他の夢の時のようなものではなく、強い片思いだった。
何らかの事情があって、彼と口をきくことができず、いつか、そのしばりが解けて、話が出来る日を今か今かと待ちわびて、というかチャンスを作り出そうとしている。
しかし次第に、自分の老けた外見がバレるのではないかと気になる。
もっとも、意中の彼も、ただの高校生ではなさそうだ。
そのあとは夫と子供のいる自宅でのシーンになっていて、私は高校生(大学受験生)にふさわしく、一生懸命勉強していた。自分の中での理解を深める為の歴史年表を作っていて、それはそれは集中して取り組んでいた。
休日なので夫がおり、夫は子供達に「お~い、今日は○○へ行くぞ~」と音頭を取り、子供達は「え~~めんどくさい~。ねえパパ、ママも行くの?」 夫「ママは勉強が大変だからいいんだ」と私に都合のよい流れ。
(現実には、ジャスト1年後にセンター試験を受けるのは娘のほうなんだが。)
夢のこの部分は、何かに没頭したい私の気持ちがよく表れているのだろう。
したいというより、実際に、今このように、朝からブログ書きに没頭しているのだが。
このあとのストーリーは、夫と子供が出かけて、私は家で1人で、またあの、何か抱えている男性に思いを馳せるのだろうか。
目覚まし時計が鳴っても、しばらくぼんやりしていた。
1/8の診察で、明るく前向きな気持ちになれた。 日常生活に関して希望が持てる方向に。
今まで、うまくいかないことが多くても、これから、うまくいって、成功体験を積み重ねれば良いのではないかと言われたので。
そもそも、はっきりと目立った波があって、その対策として薬の調整をするような状況ならば、今日のような話はできないわけで。まずはその前進が嬉しい。
主治医の言う、成功体験。今まであまり感じられずに来たから、自分はダメな人間と思いがちだった。 成功体験が少ない理由は、達成感が希薄だからだ。
そのことについては、次回詳しく述べようと思う。
今回の診察で私が話したのは、メイクをするのが面倒な私が、たまにメイクをしてキチンとした服装で、それなりの場に行くと、普段とのギャップで疲れるということ。
それに、今年は喪中で鏡餅を飾らなかったので気づいたが、例年は、鏡餅を飾ったはいいが、下げる時に、普段の生活(ハレとケの、ケ)に戻ってしまうのが悲しい。
私は主治医に言った。双極の生活リズム・対人関係療法の本には、普段とあまりに違うことがありすぎてヒャッハーや興奮やストレスが大きくなるといけないと書いてありますが、私は、よそゆきの格好をしたり、鏡餅を飾っただけで調子が狂うのはどういうことなのでしょうか?と。
主治医の解答(原因編):この病気になって、何度も、テンションの高い所から鬱に落ちる嫌な経験を積んだので、ハレからケに戻るだけでも、体に染みついた嫌な記憶が無意識に思い出されるのだろうとのこと。
言われてみれば、発病前であれば、何度も誰かの結婚式に出席したけれども、華やいだ場から日常に戻る時、何も困らなかった。
主治医の解答(対策編):確かに、あまりに強いヒャッハーを招く出来事やストレスの大きすぎる出来事は避けた方がいい。しかし、少々緊張する出来事や、良い身なりでお出かけするような場や、人との楽しい会合などを、避ける必要はなく、むしろ、ハレとケのギャップに少しは慣れて行った方がいい、とのこと。
それを受けて私は言った。「昔の人は無礼講の祭というハレから、どうやってまた普段の辛い農作業などのケに戻ることができたんでしょうか」と。
主治医は、それは平気だったのではなく、きっと辛かった筈、現代人も毎週月曜日は辛いではないかと。つまり健常であってもそういう辛さはあるし、落ち込む日もあるもんだと。 気分の上下をなくして完全にフラットにすることが目標ではなく、調子が多少良い日悪い日があっても、それを受け入れていく方向で考えると良いのだと。私はすごく納得した。そしてこのアドバイスがすごくナイスタイミングであることに驚いた。
というのは、ここ1か月(又はもっと)というもの、 (フラットな日が別に増えもせず・調子の悪い日も相変わらずあるとはいえ、)病的な度合いが明らかに下がっているのだ。
以前は自分の意志の力の及ばぬものの力に支配されて調子の波が起きていた。近年では多少フラットな日をはさみつつも、月に1度か2度、まとまって調子の悪い日々が訪れる、すなわち、ラピッドな鬱の波が起きていた。 自分の気持ちと関係なく起きる波が双極性障害の病的さのなポイントなのだ。
それと比べてここ1か月位は、ストレスがあって調子が崩れるという心因性の傾向が見られ、病的度というか、双極性障害という病気らしさが薄れている感じがしていたのだ。心因がなくても落ちる日もあったが、そういう時は回復が早かった。
つまり、気持ちと関係なく波がおのずから明確に起きてしまうようでは、薬の調整によって波を緩和する必要があるのに対し、落ち込む日や辛い日があってもそれほど波がハッキリせず、ストレスなどの原因が分かっている段階になると、多少の調子の良し悪しは、自然な自分の一部として受け止めようねという主治医のアドバイスが生きてくるのである。 そのような段階に来たからこそ、そういうアドバイスをしてくれたのだろう。主治医、慧眼である。
この日の診察で、「苦手で気が重い作業については、完璧を目指さず妥協する」ということや、「一連の作業をスモールステップに分ける」などのアドバイスをもらった。どちらも前々から知っていたありきたりのアドバイスではあるが、次の言葉があったので私の心に響いた
------そのような方法を用いて、できなかったことが、少しずつできるようになっていけば、成功体験となり、自信がつき、物事がうまくいきやすくなるだろう、と。
成功体験。それだ!
私に足りなかったのはそれだ!
じゃあ、成功体験さえ積めば、もっと毎日は良くなる!
そのように希望を抱くことができ、嬉しい気持ちになった。
この世界の中で 一番長くて一番短いもの
この世界の中で 一番はやくて一番おそいもの・・・
この言葉を聞いた、高3の6月、私は、「時間や歳月に、ついていける人と、ついていけない人がいる。時間に勝つ者と、時間に負ける者がいる。私は高校生活で一体何をしてきたのか。何もできなかった。私は敗者だ」
そう思った。
誇りが完全に打ち砕かれた瞬間だった。
誇りが打ち砕かれて、その後、生きていけるか?
今私が、生きているということは、いくらかは誇りを回復したからであろう。
しかし、劣等感が強いところをみると、どうしても、誇りが打ち砕かれた時の印象を引きずっているというか、上記のイギリスの言葉が、自分がダメであることのシンボルとなって、脳裡に強烈に残っている。
誇りを砕かれる象徴的シーンがあるなら、誇りを回復した象徴になるようなシーンがあれば勇気が出て安心して強く生きられるのではないか。
何をすれば誇りを持てるのか。
成功すれば、と思う人もいるかもしれないが、私なら、努力したならば、と答える。
成功によって得られるものは、誇りとは少し違う。
精一杯頑張った日があったのなら、誇りが取り戻せると思う。
たとえ今が、与えられた状況の中でベストを尽くす程度の毎日であって、全力投球まではできない日々であっても、過去に、全力投球した日があれば、誇りは取り戻せるのではないだろうか。
18歳の9月、私は、大学のクラブのオーケストラの合宿を初めて体験した。1日の練習プログラムは、高校の時の部活ほどハードではないにせよ、1日トータル9時間半。しかも、5~6泊もある長い合宿。いつもと違う枕で大部屋で寝るのがそんな長期に渡るなんて初めてだから、それだけでも疲れる要素だ。
そもそも、オーケストラに入りたいあまり、未経験だったチェロを始めて、毎日コツコツ練習していたというだけでも、小中学生の頃の私とは大きく違う。小中学生の頃、例えばピアノは、ちゃんと練習しないのでよく先生に叱られてた。商売だからあまり強くは言わないけど。
それに中学を卒業するまでは、あまり勉強しないで良い成績を取っていて、高校に入ったら、勉強しない習慣が仇になって、数学や物理などは授業に全然ついていけなくなったような人間だ。
そんな私が、大学に入って、チェロを毎日コツコツ練習していた。そして初めて曲をもらってオーケストラの一員として定期演奏会のステージに乗ることになった。演奏会の曲目は、Sというタイトルの短い序曲と、交響曲などの長い曲が2曲の、計3曲で、私が参加するのは、Sだ。
まだ1年生なので、短い曲1曲だけなのだ。
9月の合宿で、その3曲の練習がみっちり行われた。
合宿中は、序曲Sの練習の時間になると、その部屋に行って練習に参加。それ以外の時間は、個室で個人練習をしていた。
この合宿中で、一番強い印象が残っているのが、序曲Sの練習が全く無かった日だ。私はその日、当然ながら、1日中、個室で1人で個人練習をしていた。1日9時間半も、1人で練習し続けるのがどんなにキツいことなのか私は知った。皆で練習しているのであれば、先生が注意や説明をしている時間や、他のパートだけで弾かされている時間もあって、弾いている時間の正味は大したことない。
それに比べて1人だと弾きっぱなしだ。
折しも、疲れもたまっていた。夜は時々、飲み会に参加してハメをはずし、寝るのが遅くなる日も多かった。
しかし、私は弾き通した。午前中3時間、午後3時間半、夜(10時まで)3時間。
だから偉いとか、そんなことを言うつもりはない。別にそんなに頑張らなくても、もっと休憩を取るなりしても一向に構わなかったと思う。
ただ、自分としては満足なのだ。
全力投球して燃焼しきった1日が。
この18歳の1日を、努力した自分、精一杯頑張った自分、全力投球した自分のシンボルとして脳裡に刻めば、打ち砕かれた私の誇りは取り戻せるのではないだろうか。
話は少し変わるが、私は、中3の頃、自分と言う人間の土台というか基礎が完成したように感じていた。人生観みたいなもの。
私の場合は、幼少期~児童期、ぼんやり生きていたので、あまり自我といえるものがなかった。性格的には、個性的でかなり我が強くてしつこいのだが、それは自我とは違う。そうすると、その後の第1次性徴こそが、自我形成において かなり大きな要素を握ることになる。従って、小6~中3の思春期を過ごした結果、「これが自分というものだ」と強く意識する何かがハッキリと生まれたのは、当然の流れと言えば流れではある。
しかし、女子の思春期というのは、大人の現実へスムーズにつながっていく物ではないのが問題だ。
初潮の約一年前に、女性ホルモンのエストロゲンの分泌が始まって急増する頃が思春期の始まりとされる。この時点では勿論のこと、初潮が始まっても、まだ、排卵はないとされている。いつ頃排卵が始まるのかは不明だが、初潮の2~3年後が多数派だと考えられている。
それで私は、エストロゲンの分泌はあって、排卵がない時期を、思春期とみなしている。大人の体ではないのだ。
その後、排卵が始まると、毎月排卵後にプロゲステロンという女性ホルモンが分泌される。
つまり、エストロゲンだけ分泌され、プロゲステロンが分泌されないのが思春期で、大人の女の体は、両方分泌される(ただしプロゲステロンの分泌は毎月約14日間のみ)という、大きい違いがあるわけだ。
私が言いたいのは、思春期に、エストロゲンの本能で、自我の土台を作ったつもりであっても、その後排卵が始まったら、エストロゲンだけで生きられるわけではないから、何もしなければ自我が完成するわけではないということだ。
エストロゲンがもたらす女としての目覚めによって、世界が響き合うような調和に憧れ、コミュニケーションを好むようになっても、それだけでは、少女のままであり、現実で生きていけない。
結局、人間は「本能をいかに現実生活につなげるか」にかかっているのであり、思春期に調和を求める本能が生まれてそれをアイデンティティの土台とするまでは良くても、その土台から何かを築いていくことを高校生の時にできなかった私は、大学に入って、やっと努力で何か築くことができたのである。そうしないとアイデンティテイは確立しない。
(大学に入るまでは夢を現実にするための努力をしなかったということではなく、受験勉強は、遅いスタートではあったが、高3の4月からかなり力を入れるようになり、年が明けて学校が休みになってからは、毎日8時間位は勉強していた。ちゃんと現実に目を向け始めたのが、この受験勉強の頃なのだろう。)
アイデンティティというのは、18歳頃に確立されるべし、というふうに一応学説では なっている(人生ゴムバンド説を念頭におけばもっと遅くまでかかってもいいかもしれないが)こともあり、夢を形にするべく努力したことの象徴である、チェロを練習しまくった18歳の合宿のあの日は私にとって重要なのである。
本能(エストロゲン)が求める調和の響き、それが形となったものがオーケストラ。
夢を現実にするのが、一生懸命楽器を練習すること。
そして夢を現実にする為の明確な自我が、アイデンティティである。
18歳の合宿のあの日は、誇りを取り戻せる根拠という意味でも重要なシンボルだし、夢を現実にする為の努力というアイデンティティの確立が18歳ギリギリすべりこみセーフでできるようになったシンボルとしても重要なのだ。
その結果、薬の変更はわずかだった割には、かなり好転しました。それは、主治医を信頼できるかどうかという精神的要素も大きいからだと思います。
前の主治医は、私のことを、うつ病でも双極でもないと言っていて、それは良いとして、困るのは、私が予後について知りたそうにすると、必ず言葉を濁していました。なので、私はいつもモヤモヤしていましたが、有耶無耶のまま過ごしていました。
しかし今年の4月に、もっとちゃんと聞こうと意を決して、予後はどうなんでしょうと訊いたら、
「あなたは病気でも何でもないので、今後治るということもありません」
と言われました。それまで主治医の言動の端々にそのような考え方は薄々感じていましたが、これほどまでとは。ショックでした。その日から寝込みました。
そこまでハッキリ言われてやっと、筋の通らない医師から離れる決心ができました。
前のクリニックに通っていた間は、毎回の診察にモヤモヤ感がつきまとい、それがストレスになっていたと考えられるので、治療にプラスになるお薬を飲んでいても、診察のストレスというマイナスとで、差し引きゼロになってしまっていたと思います。
効くはずの薬も効かなくなるという状況です。治るものも治らなくなります。
転院して本当によかったです。
主治医に疑問を持っている方は、疑問をきちんとぶつけてみて、納得できないようなら転院も視野に入れた方が良いと思います。
冠源活血丸は、中国の漢方薬。冠元顆粒の錠剤バージョン。
いつもの風邪が今日は治ってきているので、5月にやめて最近再開した冠源活血丸を、チャンスとばかり再再開。
5月からやめていた理由は、寒い時期、血行が悪くて体の中心に集まっていた血液が、暑くなって急に体表面に多くなることにより、低血圧などの、虚血的自覚症状がでやすい。そんな時に、いっそう血行を良くする冠元活血丸を飲んでは気分が悪くなると考えた。しかし、虚血的自覚症状を貧血の兆候と考えるよりは、脳が少々の虚血を自覚した方がホメオスタシスにより血液が作られて、むしろ貧血が治ることに気づいたのである。
ヘモグロビンの材料になる、ポルフィリン環と鉄分豊富なササヘルスと一緒に飲めば良いだろう。さらに7月初に血液検査があり、中旬には結果が分かるので、貧血になってやしないか分かるので完璧である。
ちなみに、ホメオスタシスにより造血するには、PCを40分以上する時には、床に座ったまませず、必ずPC卓上に移し、腰掛けて行おう。
A.双極性障害(による鬱) B.虚弱体質 C.偽強迫性障害
Cは耳慣れない言葉なのも当然。私の造語である。特定の事に細かく拘り、一見強迫のように見えるが自分から進んで行っている事なので強迫ではない。具体的には着る服の機能性への拘りだ。これに割かれる時間は結構なもので、日常生活をやや圧迫している。
発症時期は、Bが16歳、Cが29歳、Aが30代と、バラバラであっても、どれが支障が最も大きいかの特定にはつながらない。なぜなら、支障をもたらす物(以下「障害」と略記)が1つだった16~28歳は子供がいなかった時期、障害が2つだった29~33歳は子供が1人いて、障害が3つ出揃う34歳~は2人の子供を抱えているというように、障害の数が変わるのと同時に、子供の人数(つまり私の生活条件)も変化しまっているので、どの障害が最も重いのか、分からないのだ。
(注:Cの発症が29歳というのは、話をシンプルにする説明方法であって、実際には16歳から軽度ながら発症しており、29歳から本格的になった。
又、16歳以降は全般性不安障害と呼んでも良いような傾向もある。)
でも幸いなことに、転院してデパケンが微増してからは、「偽強迫性障害」は軽くなってきているように思う。
29歳の時、命の危険に迫られて以来、自己不全感が大きくなって発生してしまった、細かいことへの拘り。それがこの頃は、袖の太さが1センチぐらい太すぎ、細すぎでも、気にならなくなりつつあるように思う。
デパケン、グッジョブ。
つまり、9年間も飲んだ抗鬱剤をやめたということです。
正確に言えば、転院前からやめていたことは、2つ前の記事に書いた記憶があります。
経過は順調で、ノーマル気分の時が多いです。
5/20は、私が双極性障害であると正式に認められた記念すべき日となった。
今迄は、鬱で通院5年目位に自分で双極だと気づいただけであり、主治医は否定していた。躁の時のことを診察で話しても信じてもらえなかった。
セカンドオピニオンで双極Ⅱ型と言われたので双極の事実は確かなものだったが。
前主治医の見立てでは、私は発達障害であり、鬱の原因は発達障害から来る生きづらさ・ストレスだとしていたが、幼少時に異常がない為、発達障害説は怪しく、自分でも生きづらいと思ったことはないのに、生きづらい種の人間と決めつけられていたことがとても嫌なのを我慢して9年通っていた。
彼女が言うには、発達障害は治らないので、慢性的に、鬱の原因となるストレスが続くわけだから、これからも鬱は治らないとのこと。
今迄はそのように言われてもピンと来ないばかりだったが、4/7に、とにかく治らないとハッキリ言われてやっとショックを受け、転院を決意した。
前主治医の処方は、初めの3年は闇雲に多量の抗鬱剤を盛って躁転を招くひどい物だった。
後半6年は、何故かデパケンでの治療となったが、抗鬱剤も相変わらず多いので、バランスとしては気分安定薬の効き目は不十分(診断が双極でないからこうなる)で波がかなり残っていることに、4月になって気づいた。
なので私は、どこかの精神科で双極との診断を早く受けて充分な気分安定薬をもらわなければ、私はこのままボロボロになって壊れてしまうと思った。
ちなみに元々通っていたのは最寄り(チャリで10分)のメンクリで、通い始めた時はそこしか無かった。別のメンクリができてからも、予約制でないのが気楽で、通い続けていた。
転院先は7年程前に隣駅前に開院した、精神保健指定医のメンクリで、家からチャリで15分、完全予約制。
転院の初診は大切だから、資料を作って行った。それが、このブログの1つ前の記事だ。それを受付で渡しておいた。それはとても効果的だった。というのは…
診察室に呼ばれ、「よろしくお願いします」と挨拶して座るなり、
「鬱とかいうけど、こりゃあ、双極性障害でしょ。いわゆる躁鬱ね。」と言われたからだ。
苦節9年、やっと、双極性障害との診断が正式に下された瞬間だった。
Ⅰ型の可能性すらあると言われたのでビックリ。
又、新主治医は、発達障害だから一生治らない説を否定。軽躁や躁の様子を、元主治医が、落ち着きのなさから発達障害と見誤った(又、鬱の時の独特のぼんやりを発達障害の不注意と誤った)のだろうとのこと。
発達障害ではないだろうとのこと。
私が、前主治医から「治らない」と言われてショックだったことを、新主治医に話すと、
「双極性障害だからといって、薬を飲んだ状態なら寛解するというのではなく、波は残る」と釘をさされた。波の上下幅が小さく穏やかになることを目指して治療してくれるそうだ。
薬は、気分安定薬を中心に据えることはもちろんのこと、抗鬱剤は、例えマイルドな物でも、病気の治療の為には用いず、もし鬱でどうしようもなくなった時の対症療法として用いる可能性がある程度という方針を説明してくれた。
抗鬱剤は散々イヤな目に遭ってこりごりの私にはピッタリだ。
というのは、最初の3年の抗鬱剤てんこ盛りは論外として、この6年間ずっと飲んでいたデジレルは、抗鬱効果はマイルドな薬という評判もあり、自分としても、飲んでいて違和感がなかった。それが、とんでもなく合わない薬だと気づいたのは先月(4月)だった。
そのちょっと前、2月に鬱が悪くなったので3錠だったのが5錠に増やされたのだが、2カ月近く経って3月末になっても一向に好転しないので効果に少し疑念を抱いてはいた。
ところで薬の飲み忘れは滅多にしないのだが、2月に眠前のデジレル3錠を飲み忘れ、慌てて翌朝飲んだが、激しく眠くなって爆睡し、その日1日がつぶれてしまうという出来事があった。
この眠前3錠のデジレル、4月(転院決意後)に、また飲み忘れてしまったのだが、寝てしまうのを恐れて今度は飲まなかった。自己判断OKの約束があったので、飲み忘れのままそのまま日中飲むのをやめ、眠前の2錠のみに一気に減量した。
数日後のある日、鬱のひどさに、何か頓服はないかと薬箱をあさり、余っているデジレルが目についたので、1錠飲んでみた。そしたら、気分の悪いのなんのって。体中が震えるような強張るような、居たたまれないような、これ以上生きていたくないような。
「うわ…、デジレルって、私に合ってなかったんだ」とびっくりした。
それで、残りも漸減し、ついにデジレルをやめた。
一応言っておくが、医師に処方された薬を自己判断で無断でやめるのは禁忌である。
しかし私の場合は、言わば主治医不在の状態だったから仕方ない。又、以前に主治医の指導の元、抗鬱剤を徐々に断薬した経験があり、予想される断薬症状(クラクラする)は分かっていたので落ち着いて断薬できた。
こうしてデパケン1本にしぼって(ただし、他に抗不安薬・眠剤・頓服は使用)転院した。
この辺のことは新主治医に説明してちっとも変に思われなかった。
新主治医はとても話しやすく打ちとけやすい先生で、又、初診枠は40分とってあるので、薬のことなどとても丁寧に説明してくれた。「薬の選択肢は、これとこれがあって、」と説明しながら私の反応を見て下さり、私の納得する投薬に決めて下さった。私の納得というのは、患者の言いなりという意味ではない。もしかすると逆に、初めから投薬内容を決めた上で、私の納得を待っただけだと思う。(投薬内容は後日upしますが、基本デパケン。)
ちなみに再診も10分という充分な枠になっている。待合室が空いている様子からは、実際に10分に1人しか予約を入れていないと考えられる。
今後の人生に大きな希望を抱けた日となった。
【主訴】2005年(9年前)の春に重い鬱になり、その時からAクリニックに定期的に通院するようになり、以来今日まで9年間、寝たきりの激しい鬱だったり、軽い鬱だったりなど、テンションが急速に乱高下するようになり、正常気分の時はほとんどなく、発病前のような普通の生活が全く成り立たない。
※Aクリニックというのは、実際の書類では実名を記載
発病前:毎日入浴する普通の人・毎日料理し毎食後に皿を洗う普通の主婦・
きれい好きで掃除は週2回
発病後の9年間:あまり入浴できない(半月空くことも多い)・料理は滅多にしない・
台所には洗ってない食器がいつも山積み・掃除は何年もできない
↑
このビフォーアフターは、もっと簡潔にわかりやすく手書きで図示するつもり。
【鬱の症状】
●頭が働かない(何者かに乗っ取られたような感じ)
●体も固まってフリーズ、ボーッと座り込んだままで何事も手につかない、又は寝たきり。
●緊張感が強く、焦燥感があり、押さえつけられているような抑制感。
●抑うつ感(胸の奥深くに、重く黒い物が詰まっている感じ)
ひどい時は胸が押しつぶされそう。
●食べ物の味が希薄、食べるのが面倒。
●悪霊に憑かれているような、又、見えない敵と闘っているような感じ。
(ここに、一親等以内の異常者が入る系図を図示?)
【経過】(発病の前段階も含む)
※テキストのみの文章は読みにくいので、実際には読み易い形式で記す予定
2003(H15)年---待望の第2子を出産したので、気分がハイになり、従来の自分のイメージを覆すほど活動的でエネルギッシュに過ごし、疲れるということがなかった。言わば人生の絶頂。
2004(H16)年---頭の中で一度にたくさんの考えが沸いて、次から次に気を取られるようになり、記憶の混乱、イライラ、焦燥感などで、家事育児などの日常生活に突然支障を来たすようになったので、Aクリニックを受診するも、別段投薬は無いのと多忙の為、定期的に通院はせず。入眠困難があり、時たま眠剤を貰いに行く程度。
家を買う計画を立てるなど、色々なことを始めてしまう。
2005(H17)年
春から行動しづらくなり、頭が働かなくなり異常に気付き、憂鬱や不安感、空が叫んでいるような感覚を覚えたので、
5/10 Aクリニックに定期的通院開始、5/20 ルボックス50mg処方
5/22 突然体がフリーズする。子供の発熱に救急車を呼ぶなどの異常行動。
5/23ルボックス100mgに増量、ワイパックス0.5mg×3回を追加、→寝たきりとなる。
6/3 アモキサン25mgが追加→翌日には普通に起き出して、自然に家事など体が動いているという劇的効果。少しずつ本調子を取り戻していく。(ワイパックスは終了)
8/下 すっかり治った感じ。
急にすごく活動的になる(神社に行って親や親類など大勢の分の御守りをもらうなど)
今迄の人生で味わったことのない多幸感。宇宙の神様と一体化している感じ。
室内の模様替えをするが、カーッとのぼせてしまうので能率的ではないが、満足いく仕上がり ♪
8/31 鬱は治りました、薬を減らして下さい。アモキサンを飲むとカーッとのぼせるので、アモキサンを減らして下さい、と言うも、聞き入れられず、両薬とも依然同量で継続。
9月~ それまでに経験したことのない、急激なスパンでの気分の乱高下が現れる。家族で行楽に出かけるなど常人のような行動をしたかと思えば、翌日には寝込んでトイレがやっとというような。突然襲来してくる鬱の波の合間に、2歳児を連れて都内へ出かけ1~2駅は歩かせて、「鬱が治る電球」を探し回るなどし、出費もかさむ。
2006(H18)年度----鬱が酷く、ルボックス(最大150mg)とアモキサン(最大125mg)増量されるが、効果なく(というより増やせば増やすほど効かなくなり)、緊張感・焦燥感がひどい。
2007(H19)年度----更にデジレルが加わり、抗鬱剤3剤となる。最もテンションの上下が激しい年となった。
20083月には死にたくなるほど。
2008(H20)年度(不明熱・胃出血・腸炎になった年)
4月 ルボックスとアモキサンは中止となる(デジレルは継続)
5月 デパケンR200mgが加わる。以降デパケンとデジレルでの治療となる。
↓
初め(デジレル150mg時)、デパケンの効果をあまり感じなかったが、7月にデジレルが75mgに減になって以降は、ハッキリと効果を感じた。希死念慮がすっかり治る。
デパケンを飲むようになって、性格が昔の自分(発病前後問わず)とは変わって、思いつめない気楽な性格に変わったように感じ、デパケンが合っているのだと感じる。以来しばらくは、気分の波の上下幅が小さくなった感じ。
2009(H21)年度(突発性難聴になった年)----2010(H22)年
デパケン300mg(血中濃度22)、デジレル75mg。3月と9月に鬱が重くなることが多い。
2010の秋、自分は、治る「うつ病」ではなく、何か他の、一生薬を飲まなければならない病気だと思うようになり、障害者手帳取得に向けて動く。
2011(H23)年----2012(H24)年
9月、激しい鬱でデジレルが125mgとなる。→すぐ治り普段の軽鬱に戻る。
次の3-4月、約1か月間、スペシャルハイになる(デジレル125のままだったので)。
→デジレルを75mgに減量。
以降、デジレルは自由に減量するよう指示される。
※ハイの時、突発的にセカンドオピニオンを受け、双極性障害Ⅱ型との診断。
9月 鬱の為デパケン400mgに増(血中濃度48)、デジレルも一時的に増
2013(H25)4月~ 治療開始後8年経て初めて、ハイでも鬱でもないノーマルな日が現れる ♪♪
毎日の調子の記録を残すようになる。
デジレルは自分で漸減する。
11月 半年安定したのでデパケン300mgに減となる
2014(H26)2月~突然の興奮から鬱となる→デジレル125mgに増える→鬱の泥沼から抜け出せなくなる。デパケン増量を願い出るも断られる。
4月に入り、完全に寝込む。
4/末に、以前の約束を思い出してデジレルをやめてから、胸の苦しさは楽になったので、
現在、デジレルは飲んでいない。
現在飲んでる物---デパケン300mg、夕食時デパス0.75mg、寝る前ハルシオン頓服 金1~3錠
激鬱時頓服ドグマチール25~50mg、興奮時頓服ワイパックス0.5~1mg
でもさ、本当は。
「人生とは美しき錯覚である」と思う。
錯覚していない間は鬱。
私は、ずっとずっと、錯覚し続けて、楽しい人生を送りたい。
それでこそ意義深い人生だ。
(つまり、「今が幸せならばそれでいい」という、やや虚無的な人生観。双極性的人生観かも。)
人生とは、水の上を歩いているようなものなのである。沈みやしないかと不安になった時には本当に沈んでしまい、溺れ死んでしまう。
私の場合は、そのような統合失調的心性が元々あったからこそ、この世にすがりつく為に、世間にとりすがろうとし、共感や和を重んじるようになったのだ。そして共感やコミュニケーションや和が、生きがいにまでなった。
双極性障害Ⅱ型は、共感性に優れた人がなりやすい傾向がある。うつ病は、責任や組織の和を重んじる努力家がなりやすい傾向がある。私は、うつ病と双極Ⅱ型の中間的な気分障害に罹患しているわけで、このような病気を発症してしまったことは大変に苦しいが、それも統合失調症になるのを避ける道筋の一つだったのだ。