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5月12日
時折鬱気分がよぎるが、今の所なんとかうまくかわしているところだ。意外といつも通りに動けた。(普通の人のようには、全く物事をできないのは言うまでもないが)
具体的には、食器を30枚洗い(そんなに洗い物溜めるなって)、入浴・洗髪もできた。(逆に言うと、他には何もしていない。)
長時間鬱気分が続くのではなく、よぎるだけなので、何とか助かっている。テンションが下がっていることは確かだ。
我に返ってみると、軽躁傾向の時は、ある意味、頑張りすぎだった。「ある意味」とはどういうことかというと、頑張りすぎという言葉には、2つの意味があることに気づいたのだ。
以前イメージしていた方の頑張りすぎは、鬱になる人の多くに言えること(鬱になってない人でもそうだが)で、責任感の強さや真面目さにより、やるべき事について頑張って、義務を果たそう、任務を全うしようとしている状態。
それに対して、4/15にブログを始めてから昨日ぐらいまでの私は、(肝心のブログの記事そのものは、普通に書いていただけだが、)アクセスを増やすためにあの手この手を無意味に使ったりして、たくさん時間を使ってしまっていた。軽躁混じりだったかもしれない。パソコンばかりにのめり込み、家事などのやるべき事はできていない、義務を果たしていない状態だった。自分は、楽しみに溺れてしまって、何と意志が弱いのだろうと思い、また、自分を不真面目だと思い、なんとか真面目になりたいと、試行錯誤するのだがうまくいっていなかった。そんなダメな私が、頑張っているとは、全く思っていなかった。
しかし、度を越してのめり込むことは、自分に負担がかかって疲れてしまうので、鬱を招きかねず、これもある意味頑張りすぎだったのだろうと、今日気づいたのである。
読者の皆さんの多くは、真面目な頑張りすぎであって、人の為を思って、つらく苦しいことも忍耐したりする。私は、(基本的には真面目で責任感が強いのだが)時によっては、不真面目で、自分の為で、楽しい頑張りすぎをしてしまう(軽躁の一種かもしれない)。頑張りすぎの2種類と言ったのは、そういうことだ。どちらも、鬱を招き、つらい結果をもたらす。
そのように考えるうち、私が好きなことにのめり込んでしまわないようにすることには、今迄と違う意味付けができると思えてきた。ただし、前段と論理的整合性は無い(というより、うまく説明できない)。
今までは、のめりこんでいればその時はいいけれど、それだと、洗濯物と洗い物が溜まったり、家の中が散らかったり雑用がたまったりしてしてしまって、結局憂鬱になるし、洗面・入浴・洗髪はしないは外気は浴びないはでは、健康に悪影響をもたらして心身一如によりまっさきに精神に変調をもたらす、と考えていた。
その考えは完全に正しいのだけれど、後から悪い事が起きるのではなく、のめり込んでいるその瞬間に既に、自分に対して大きな無理をしているのであって、のめり込まない方が、楽なのかもしれないと思うようになった。
そうすると、いままで意志の制御が大変だったけれども、意外と肩の力を抜いた別の方法でうまくいくかもしれないと思うようになったのだった。
時折鬱気分がよぎるが、今の所なんとかうまくかわしているところだ。意外といつも通りに動けた。(普通の人のようには、全く物事をできないのは言うまでもないが)
具体的には、食器を30枚洗い(そんなに洗い物溜めるなって)、入浴・洗髪もできた。(逆に言うと、他には何もしていない。)
長時間鬱気分が続くのではなく、よぎるだけなので、何とか助かっている。テンションが下がっていることは確かだ。
我に返ってみると、軽躁傾向の時は、ある意味、頑張りすぎだった。「ある意味」とはどういうことかというと、頑張りすぎという言葉には、2つの意味があることに気づいたのだ。
以前イメージしていた方の頑張りすぎは、鬱になる人の多くに言えること(鬱になってない人でもそうだが)で、責任感の強さや真面目さにより、やるべき事について頑張って、義務を果たそう、任務を全うしようとしている状態。
それに対して、4/15にブログを始めてから昨日ぐらいまでの私は、(肝心のブログの記事そのものは、普通に書いていただけだが、)アクセスを増やすためにあの手この手を無意味に使ったりして、たくさん時間を使ってしまっていた。軽躁混じりだったかもしれない。パソコンばかりにのめり込み、家事などのやるべき事はできていない、義務を果たしていない状態だった。自分は、楽しみに溺れてしまって、何と意志が弱いのだろうと思い、また、自分を不真面目だと思い、なんとか真面目になりたいと、試行錯誤するのだがうまくいっていなかった。そんなダメな私が、頑張っているとは、全く思っていなかった。
しかし、度を越してのめり込むことは、自分に負担がかかって疲れてしまうので、鬱を招きかねず、これもある意味頑張りすぎだったのだろうと、今日気づいたのである。
読者の皆さんの多くは、真面目な頑張りすぎであって、人の為を思って、つらく苦しいことも忍耐したりする。私は、(基本的には真面目で責任感が強いのだが)時によっては、不真面目で、自分の為で、楽しい頑張りすぎをしてしまう(軽躁の一種かもしれない)。頑張りすぎの2種類と言ったのは、そういうことだ。どちらも、鬱を招き、つらい結果をもたらす。
そのように考えるうち、私が好きなことにのめり込んでしまわないようにすることには、今迄と違う意味付けができると思えてきた。ただし、前段と論理的整合性は無い(というより、うまく説明できない)。
今までは、のめりこんでいればその時はいいけれど、それだと、洗濯物と洗い物が溜まったり、家の中が散らかったり雑用がたまったりしてしてしまって、結局憂鬱になるし、洗面・入浴・洗髪はしないは外気は浴びないはでは、健康に悪影響をもたらして心身一如によりまっさきに精神に変調をもたらす、と考えていた。
その考えは完全に正しいのだけれど、後から悪い事が起きるのではなく、のめり込んでいるその瞬間に既に、自分に対して大きな無理をしているのであって、のめり込まない方が、楽なのかもしれないと思うようになった。
そうすると、いままで意志の制御が大変だったけれども、意外と肩の力を抜いた別の方法でうまくいくかもしれないと思うようになったのだった。
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