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爽やかだったり、鬱だったり。ええ、そううつってやつです。 苦節9年、2014年にやっと、正式に双極性障害の診断が下りました。 鬱とフラットをラピッドに繰り返して、滅多に「爽」や「軽躁」になりません。
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2/3から2/18まで鬱期だった。(私の鬱期にしては、やや活動性が高かったが、それだけに不安定要素も大きかった。)
過渡期を経て、2/24頃から寛解期に入ったようだ。
寛解期の、鬱期と大きく違う特徴は、「生きてるのは決して嫌いじゃないな」と思えることだ。

「生きる意味はこれである」とハッキリ言える人もいる。天職やライフワークを持つ人などだ。
しかしそういう人は少数派。大部分の人は、生きる意味を言葉では説明できないだろう。私は、「生きる意味とは、生きる意味を見出す過程にある」と考える派であるが、見出した物が言葉で説明できるとは限らない。
私の思う「生きる意味」とは、「ああ今まさに生きているんだな」「生きるのは嫌いじゃないな」と感じられることだ。理屈ではない。

鬱期には、生きる意味が感じられない。生きていてもつまらないだけだし、こんな苦しい思いをしてまで生きる意味が、分からない。
でもそれは、病気がそうさせているだけだと思う。
私のようなタイプの気分障害は脳の病気である。
生きる意味は、五感で感じたり体で感じたりするものであり、それは、とりもなおさず脳で感じるという事だと思う。だから脳が正常でない間は、生きる意味が感じられないのは当然なのだ。

鬱というほどではなくても、何となくつまらなく感じる場合がある。
これは、「今まさに生きてる」っていう感じが希薄になっている時だから、脳の調子があまり良くないということである。
私たちはつい、次のように考えがちだ。世界には、戦乱に巻き込まれている人や食糧もままならない人がいる。平和で飽食な日本においても、安全が脅かされるような大変な目に遭っている人は沢山いる。そんな人々に比べて、自分は恵まれているではないか?それなのに生きててもイマイチつまらないというのは随分ぜいたくで我儘なのではないか?などと。
それは違う。ぜいたくでも我儘でもない。単に脳の変調であって、治療すれば治るのである。
治療して、一時的にせよ寛解が訪れた時、自分の置かれている環境に、改めて感謝の念を抱くのである。

私は上記のようなつまらなさを感じた時、鬱とはまた少し違う、なんともいえないイヤな気持ちを抱いたものだった。しかし今は対処法が分かる。
少しずつ、生きている感覚や味わいが感じられることを目標に、すぐにはならないかもしれないけど気長に治療すれば良いのである。
ハッキリと鬱になった時は、急いで調子をマトモにする為に、抗うつ剤が2錠位増えるのであるが、上記のような状況の時はそんなに増やさないとしても、明らかに脳の変調のサインだから、抗うつ剤を僅かに増やして気長に様子を見ると良いのだと分かってきた。
放っておくと鬱になりかねないのだと分かってきた。
完全に落ちた時と違って気晴らしも有効だと思うが、それを焦って行いすぎると、疲れてかえって鬱に突入しやすくなるので、ほどほどが肝心だ。
つまらない時は、それが治るのを信じて、とにかく気長に治療だ。

今は、つまらなくもないし、生きる意味が感じられるので、良かったなあと思う。
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